4月7日

 何日か前の夜こと、最近話題になっていて気になっていた『チェンソーマン』を読んでみようと思った。1巻を買ったつもりが最終巻の11巻を買ってしまい、もういいやと思いキンドルで全巻いっきに買って、朝まで一息で読んでしまった。思春期の男の子の年上の女性への幻想を極大展開して、そこにバトル漫画的な要素をひたすら突っ込んでいくところは『フリクリ』に通じるものがある。こういうのは「君と僕」の同期が世界の変革に短絡するセカイ系に対して何と呼べばいいんだろう。精通系と思い浮かんだが即座に頭から追い払った。ともあれ一方でいや増す性的な欲望の、他方でその対象が結局どういうものなのかわからないというわからなさを覆い隠し脱性化する幻想もまた肥大化するという循環があって、最終的に後者が勝らなければならないという少年漫画的なコードがある。しかしそれは「お約束」に留まるものでもなく現実の少年が生きるものを反映してもいるはずで、同時にその少年の心性にもある程度フィクションが食い込んでいるはずで、そこには別の循環がある。

 作者の藤本タツキとは1992年生まれの同い年で、そういえば彼も同い年の大前粟生さんに2年くらい前に藤本の『ファイアパンチ』を勧められたけどまだ読んでいない。大前さんの作品はぜんぜん精通系じゃないけど、ふたつめの循環を扱っているという点では共通しているかもしれない。フィクティブなコードが覆い被さっている現実に対して、「生の」現実を書くことによってではなく、固定化した循環を壊すほどにフィクションのコードを誇張的に使用しつつ「現実」を遠くまで投げること。ここまで抽象化すると何でも言えてしまうというところもあるけど、いぬのせなか座の山本さん(彼も92年生まれだ)の書くものにも、表現の形式を認識の変形に裏返すという一貫した関心があるように思う。こうした傾向はともすればコードと戯れているだけの自閉的な探求に見えてしまうのだけど、また浮ついた言い方をすればポスト・リアルのリアアリティみたいなもの切実さは間違いなくあると思う。

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カテゴリー: 日記