5月30日

朝風呂に浸かりながらKindleで坂口恭平(漫画:道草晴子)の『生きのびるための事務』を読む。大学を出て1年目の著者がジムと出会い、10年後の「将来の現実」に向けた生き方を出発させる。自分が23歳で、なにができるのかなにをしたいのかわからなかった頃に戻って再出発させてくれるような、たしかな希望にあふれた本だ。僕は来年でそこから10年。ツイッターで感想をつぶやくと坂口さんが見つけてくれて、入眠のために『シネマ』5時間講義を聴いていたのだと教えてくれた。最初に彼の本を読んだのは、それこそハタチくらいの頃に出た『独立国家の作り方』で、そこからずっと見ていたので嬉しかった。なんでもやっておくものだ。この日記だって彼のパステル画の影響もあるだろう。宅急便で須山さんから台湾の烏龍茶が届く。こないだ飲ませてもらったものが美味しかったと言ったら、輸入販売をしている知り合いからもらっているものらしく、わざわざお裾分けしてくれたのだ。パウチに「lisan」とだけ書いてあって、調べてみると李山烏龍茶のことらしい。さっそく淹れてみると、こないだ自分で探して買った凍頂烏龍茶よりずっと、そのまま茶畑を歩いているようなフレッシュな香りがした。家を出てドトールで仕事をして、ひと息つきながら『生きのびるための事務』にあった、ノートに昨日の24時間と10年後同じ日の理想の24時間をふたつの円グラフで書くのをやってみた。昨日のグラフの下に印税(初版ぶん)、原稿料、フィロショピーなど今年稼げる(3月までもらっていた学振と非常勤は抜きにして)収入予定を列挙してみると合計700万くらい。仮にこれが10年後に1000万になるとするなら、そいつはどういう一日を過ごしているのか。書いてみたが変えたいところが読書時間を増やすことくらいで、あとはほとんどいまと同じだった。いずれにせよ書く・喋るだけで1000万目指すのはかなりしんどいということが判明した。今年の700万だっていろいろ重なってそうなっているのだし、いろいろ重なった状態を維持するだけでも大変だ。大学でも私企業でもいいからとにかくひとりでやること以外の何かがないと。でもそれがなんなのかまだよくわからない。いまこうなっているのだって、なんだかよくわからないまま嫌なことだけ避けてきただけなのだと思って、喫煙ブースに移った。

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5月29日

また吉住さんにサモアールに来てもらって、『非美学』の惹句とイベント企画、『眼がスク』文庫版の進捗とスケジュール確認、論集の今後の方針について話し合う。なんだか最近彼もどんどん元気になっているように見えて、自分の企画で何かしら希望を感じてもらえているんだったら、それだけでもやってよかったなと思う。こないだの撮影もみんな楽しそうだったし、いい波が来ている。ひさびさにサイゼリヤに行って、青豆の温サラダ、辛味チキン、ミラノ風ドリアにチーズが載ったものを食べた。ドリンクバーをつけてもこれで1000円。ジムで20分走って、懸垂とスクワット。80キロで6回を4セット。最初なんだか重いな、調子が悪いのかなと思って3回でやめてよく見ると100キロでやってしまっていた。100キロ持てるのだ。健康維持が目的の筋トレはスクワット(and/orデッドリフト)と懸垂を固定して、あとは一種目くらいその日の気分でやるので十分だと思う。小さい筋肉をちまちまやる時間があったら、ストレッチや体を大きく動かす有酸素運動に使ったほうがいい。

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5月28日

文庫化するだけだからほっとけば出るだろうというくらいに考えていたが、ここ数日『眼がスクリーンになるとき』のゲラ校正と座談会文字起こしの構成にかかりきりになっている。外は暗く曇っていて、小雨だが風が強く、傘を畳んで歩く。しかしまあ、この作業が終われば、連載も隔月にしてもらったし、週一のフィロショピー以外はほんとに暇だ。トークみたいなその場に行けば終わる仕事はなるべくたくさんやって、あとはなるべく自由を確保したい。日記ももう終わるし。でも露出としてはこれからしばらくむしろ増えるんだろうし、変なものだ。夕飯は鶏もも肉の梅と大葉のソテーと、きゅうりとマッシュルームの和え物を作る。ひと口大に切った鶏を焼いてフライパンから出して、そこにバターとすりおろしにんにくを入れて弱火で香りを出して、梅肉を加えて鶏を戻して和える。皿に盛って粗挽き胡椒をたっぷり、刻んだ大葉を肉が隠れるくらいたくさんかける。夜になると風がもっと強くなって、家がかすかに揺れる。スピノザは風とか陽光とか、そういうものがあるだけでぜんぶ哲学できちゃうひとだったんだろうなふと思う。僕はそうじゃない。

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5月27日

フィロショピーの『差異と反復』2回目。「思考のイメージ」批判について話していて、「自明の理」を疑うという言い方では不十分なのかというコメントがあった。当たり前のことを疑うというのは聞こえがいいし、実際哲学は往々にしてそういうものとして自認するわけだが、疑われた世界により確かなしかたで戻ってくるために疑うだけなのだったら、それは既成の価値の追認でしかないというのが、ドゥルーズの話のポイントなのだと話す。デカルトのコギトも、すべてを疑ったすえに「私」に帰ってくるわけで、幸福はわが家にありましたというおとぎ話と変わらない。そういう、常識を疑って常識に帰ってくるための装置として哲学が使われることがドゥルーズは我慢ならなかったのだろう。

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5月26日

なにをしたっけ。久しぶりにジムに行って、帰りに『眼がスク』文庫版のゲラを読んだ。頑固だなあというところと、はっとするようなところが、ランダムに出てくる。未来の自分に、あれは若書きだからなんて絶対に言わせないぞという怒りをエンジンにして書いていたことを思い出した。こないだの黒嵜さん、山本さんとの座談会の文字起こしも構成を始めている。前半が『アーギュメンツ』と『いぬのせなか座』まわりの2017年あたりの思い出話で、これが文庫に載るんだと思うと愉快だ。でもこれからあの本を読むひとにとって、そういう話がいちばん、こういうふうにやれるんだという拡張可能性につながると思う。

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5月25日

ツイッターで蛙化現象についてのツイートが流れてきて、それは恋人のちょっとした行動で気持ちが冷めてしまうスラング的な用法についての話だったのだが、これは「哲学的ゾンビ」問題と似たようなことなのだろうなと思った。つまり、誰かが疎遠で機械的なものに見えるのは、自分が自分に対して疎遠で機械的なものになっていたことの自覚からの、無意識的な瞬時のすり替え・投影なのだろう、と。ちょうど哲学的ゾンビについて「言葉と物」で書こうと思っていたので、この話を導入にするといいかもしれない。往々にしてひとは、とりわけ哲学は、自分がぼおっとしていたことを棚に上げてそれを他人になすりつける。自分の意識について疑うときですら、それを意識的にコントロールする何かを導入せずにはいられない。その点やはりデカルトは偉いのだ。

この日記ももうあと1週間で終わり。1年目は本を作るために、2年目は引用するために、日記を読み返す機会があったが、ここ1年はそれもなくなり、何を書いてきたのかぜんぜん憶えていないし、最初の2年の記憶も遠くなった。3年やってやっと日記らしくなってきたのかもしれない。しかしこれを本当に書き捨てるというのは、どういうことなのだろうか。3年ぶんを本にするという、全体化への期待みたいなものがひとつの拠り所になってきた、つまり、僕でなくても誰かが思い出せるものになるだろうと思ってきたが、仮にそれが実現しなければ、本当に誰も思い出さなくなるし、日々の連続性も回復不可能になるのだ。テクストが消えるわけでもないのに。それはどういうことなんだろう。

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5月24日

家で撮影。写真家の金川さん、デザイナーの須山さん、編集者の吉住さんが朝10時くらいに来て、妻を紹介してコーヒーを出す。天気は明るい曇りで、南の窓から差す光だけで撮影できる。金川さんの手際がよくて撮影自体は一時間半ほどで終わって、この街のことを紹介しながら龍鳳まで歩いて昼食を食べにいく。家の周りのカラスとネズミとスナックのこと、横浜橋商店街のこと、イセザキモールのこと。日記を読んでいても僕がこういう街に住んでいるのは意外らしく、街のことを書くのは本当に難しいのだと話す。龍鳳は待たずに入れて、丸いテーブルで空心菜炒めや海老の包み揚げ、鴨の薬膳スープをみんなで分けながら食べる。家に戻りながら吉住さんと『非美学』最終ゲラの未解決事項である「本書」問題について話す。つまり、「本書」が『非美学』を指す場合と直前に言及した本を指す場合とがあって、僕としてはそれぞれ文脈から明白にわかるし、いいじゃないかと思っているのだが、吉住さんや校正・校閲チームのひとは一瞬迷うので言葉を分けたほうがいいと思っている。たぶん問題は僕のクセで、本を主語にしがちなんですよねと言うとなるほどたしかにという空気になって、個々になるべく自然なかたちで修正したりしなかったりしますと言う。英語の問題で代名詞の指示対象を探すようなちょっとした負荷はむしろあったほうがいいようにも思うのだが、どうなのだろうか。吉住さんは金川さんを車で送って、須山さんは電車で帰る感じだったのだが、まだ吉住さんと打ち合わせることがあったこと、金川さんの個展会場に送ること、須山さんが帰るのもその方角であることもあり、5人みんなで車に乗って恵比寿まで金川さんの個展を見に行くことにした。関内から高速に乗って、50分ほどで会場に着く。「祈り/長崎」という展示で、文字通り祈りと長崎の写真が並んでおり、その看板のいつわりのなさだけでも、そうだよなと安心して見られる展示だった。逆に言えば、いま展示を見に行くことはそれくらい変な緊張を強いられているのだ。ギャラリーのスタッフに記念写真を撮ってもらって、良い一日だったねと言いながら別れて、妻と横浜に帰った。

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5月23日

家にいると頭がわーっとするのでいつも外に出るのだが、今日の前半は頭がわーっとするのに合わせて家のなかでいろんなことをした。書き出すと仕事から家事まで細かく7つくらいやることがあって、それを頭からこなしていたはずが、気づくとそこに入っていない献本リストをスプレッドシートで作っていた。ここ、この空間にやること・できることが集中しているから、頭と体の距離が近くなって短期記憶に振り回され、部屋がほとんどそのまま頭骨みたいになっているのだ。結局外に出る。外に出るみたいに。

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5月22日

カヴェルの『理性の呼び声』をもらって、ぱらぱら読む。1000ページくらいある。やはりとても読みにくい文章だが、それを、段落ごとの着地点だけ拾って振り返らずにページをめくっていく。角川選書から出ているマルクス『資本論』の解説書をKindleで買って風呂で読む。しばらく風呂ではこれを読もう。Kindleで読むときは数段落単位でまとめてハイライトをつける。ハイライトだけ一覧して、気になったところの話の流れがわかるように。でも見返すことはない。ルーターの電源を抜き差ししたらネットが繋がらなくなり、見たこともない認証ページに飛ばされる。プロバイダーは妻が契約してくれているので電話で問い合わせてもらって、ユーザー名とパスワードを入れると繋がった。いままで3年間認証なしで繋がっていたのはなぜかと聞いても、回線ってけっこう適当なのでという適当な答えしか得られなかった。それまで部屋を片付けたり、夕飯の材料を買いに行ったり、いい感じで進んでいた一日が、それだけで2時間くらいロスした。夜に少し黒嵜さんと電話で話して、『非美学』はどうしたって敷居が高くて、論集が出てやっと広がりが作れると考えていたが、そういうことでもなく、『非美学』の段階からバンバン開いていけばいいのだと思えた。現にゲラを渡している黒嵜さんやいぬのせなか座山本さんは哲学プロパーではないがおもしろく読んでくれているようだし。

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5月21日

『眼がスクリーンになるとき』文庫版ゲラ。ラタトゥイユと白ワインビネガーソースの鶏もも肉のソテー。パーカーだと暑かった。

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