8月29日

「パフォーマティブ」という概念にここ数十年込められてきた念のようなものは、どこからくるのかというと、哲学が自身の存在根拠を思考にではなく自身が用いる言葉に見出すという、ある種の後退の果てからきているのだと思う。神なき時代は政治の外なき時代であって、哲学は政治への内在か政治の外の再発明かの選択を迫られる。僕はわりと素朴に政治の外はあるでしょと思うのだけど、それが生存の美学みたいなしみったれたものだったら嫌だなとも思う。ともかく、パフォーマティビティは哲学が政治の内部で自身の価値を弁護する最後の砦で、いわゆる「運動」へのコミットメントとの両輪で哲学の実効性は調達される。でもそれは止まったら壊れる軸の浮いた車のようなものではないか? そして命令が命令として、質問が質問として機能するためにはあらかじめそうする権限がなければならない以上、パフォーマティブは自身が相続したものを切り崩しつつそこにしがみつくような振る舞いでしかない。それはいわば哲学の政治への外在だ。哲学が現実に「作用」するとしたら結局のところイデオロギーとしてそうするしかないので警戒すべしということだろうか。これはまっすぐにそうだろうと思う。偉そうだとか現状追認にすぎないとか空論だとか哲学に向けられる不信の数々はすべて妥当だと言ってもいいと思う。でもそういうのは哲学とぜんぜん関係ない。

ばらばらと書いてきたが、ここ3日の日記に通底する問題が何なのかいまいちはっきりしない。何かあるのは間違いないのだけど。

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カテゴリー: 日記