11月5日

そういえばまだ書いていなかったので、1月に日記を始めたときに念頭にあったふたつのことについて書く。ひとつはゴダールの発言で、たしか Adieu au langage(こればかりは邦題を使う気になれない)が公開された頃のインタビューでの話だったと思う。これから映画を撮りたい若者に何かアドバイスはあるかと聞かれて、彼はiPhoneでもなんでもいいので自分の一日を撮影することから始めるといいと答えていた。iPhoneにカメラとマイクがついていて、簡単な編集ソフトは無料で使える。しかしカメラはどこに置くのか、家にいる自分を据え置きのカメラで撮影し続けるのか、go proを頭にくっつけて一日過ごすのか。そんなことをしても何も写らないだろう。「今日」はどのように映像になりうるのかと考えたとたんに映画を作ることのとりとめのなさが感じられてずっと頭に残っていた。もうひとつはYouTuberのことで、たとえばYouTubeを始めたテレビタレントは、毎日動画を投稿することで初めてYouTuberとして一人前だと認められる風潮がある。去年は博論にかかりきりでコロナもあって、家にいる時間が増えるとだんだん長い映像コンテンツを見る気が失せてきて、いきおいYouTubeを開くことが増えたのだが、毎日更新される10分ほどの動画に何か救われるような気持ちがした。毎日やるとどうしても企画の鋭さやパフォーマンスの質は落ちてくるが、毎日投稿という不文律はむしろその揺れを共有するためのものだろう。それがたんなる情報量の差ではなく楽しまれるものになるためには、自分の地金を見せる覚悟が必要だろう。作り手と受け手のそういう、だらしないんだか忙しいんだかわからない関係性に興味があった。そのふたつのことの交差するところでこの日記は書かれている。

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カテゴリー: 日記