12月6日

『存在と時間』を読み返している。前に読んだときは中公クラシックス版だったのだけど——小倉さんが何かにつけて中公クラシックス推しだったので——せっかく読み返すならと思って高田珠樹訳の作品社版を買って読んでいる。いろんなところでハイデガーも大変だなあと思うのだけど、とくに自分の目指す存在論にはそれに見合う「文法」が存在しないので、いきおい表現がぎこちなくなったり、醜くなったりしてしまうかもしれないとエクスキューズしていて、これには考えさせられた。彼はそこで、プラトンの時代にすでにトゥキディデスらの「物語」的な語りと哲学的な用語法とのあいだには大きな開きがあったと述べている。でもそれは日常的な言語で捉えられないものを目指すからこそのことなのだと。同じようなことはドゥルーズも『哲学とは何か』のなかで言っている。哲学者はイデアとかコギトとか、当の言語のなかでは「かたち」とか「考える」とかのようにごく日常的に用いられる語に新たな意味を付与する一方で、ときにはギクシャクとした造語を作らざるをえないときもあると(たしか脱領土化déterritorialisationを例として挙げていた。デテリトリアリザシオン)。そもそもが明治以降の急拵えの翻訳のうえに成り立っているがゆえに、日本のほうがよっぽどそうした乖離は大きいと思う。印欧語族のなかでやって済むんだったら楽でしょうよと思ったりもしていたが、ハイデガーも大変そうなのでそもそもそういうものなのかと思った。意地を張って他の一般的な言葉を使わずわざわざ「現存在」と言っているのでは決してないと言っていてちょっと可笑しかったが、彼の真摯さと謙虚さを見習いたいと思った。

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カテゴリー: 日記