12月8日

博論本の改稿。いちばんの問題は節構造だと思う。博論の段階ではまず全体として、ドゥルーズの能力論の展開から、彼の哲学と芸術の関係の変遷も追うことができるという思いつきからスタートしていた。前期の能力論と、中期の言語/物質の二元論と、後期の芸術哲学を繋げば、芸術が哲学を変化させていること、そしてそうした変化が可能になるような条件が——当の変化のなかで——哲学に組み込まれていることを明らかにできるだろう、そしてこれは批評の哲学的条件の探究であろうと。これは面白いと思うし、博論を通してテクストベースで主張の正当化ができたと思う。

でも「テクストベース」であることが問題で、というのも博論の節の多くがここではこの本のこの章のこの概念を扱います、というような枠組みになっていて、通して読むとバラバラの講読レジュメを読んでいるような気分になってくる。書いているときはぜんぜん気づかなかったが、頭の中にある思いつきにテクストに基づいた根拠を与えることにいっぱいいっぱいになっていて、当の思いつきに文章のなかでストーリーを与えることまで頭が回っていないのだ。これはびっくりした。いや、審査のときにすでにナラティブがないという指摘をもらっていたのだが、それがどういうことなのか気づくまで一年もかかってしまった。

これは良くも悪くも『眼がスクリーンになるとき』の書き方に引っ張られていたのだと思う。この本を書いたおかげでテクストを区切って整理し、ワイルドカード的な語彙に着目して線を引き、自分なりの読み方として提示するということができるようになった。でもやはり『シネマ』だけで完結させるのとドゥルーズの全体を論じるのとでは、同じやり方は通用しないのだろう。まあやるべきことは大変だがシンプルではあって、節のタイトルを扱うテクストの範囲ではなくひとつの主張や仮説が込められたセンテンスにして、それに合わせて本文の流れを調節するだけのことだ。作業が大変かどうかより目的が明確かどうかのほうが重要。幸いいちばん大変な「こう読める」と言うための読解は博論でひととおり済んでいる。

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カテゴリー: 日記