10月23日

横国へ。坂道で汗をかく。大きい教室に変わって、やっとみんな座れるようになる。大きいプロジェクターはVGAしか繋げず、HDMIのアダプターしか持っていなかったので管理室に借りに行く。先週日記とパノプティコンを繋げて話したら、そういう管理は「合理的」だと思ったという感想がちらほらあったので、フーコーの権力論の話。どうしてひとは「統治者」の目線を内面化するのか。自発的隷属の問題。権力は「偉いひと」が「持っている」ものでも、どこかに中心や起源があるのでもなく、雑多な装置が噛み合わないまま分散するからこそ機能するのだという話をする。コロナ禍でも、学知、医療、行政、産業の関係は「統一的見解」からほど遠く、その分散のニッチにさらなる知や、マスクやアクリル板、「職域接種」、遠隔授業といった装置が流れ込む。それは権力の「失敗」ではなく、権力とはそういうものなのだ。そうして内心でワクチン陰謀論者をコケにしつつ、自分が気にしているのが健康なのかひとの目なのか識別不可能な薄暗い場所に閉じ込められる。

夜。公募書類を書く。公募に出すごとに、重版のたびに送られてきた『眼がスクリーンになるとき』の在庫が僕の「業績」となって減っていく。ひととおり書いて横になって、自分は本当に就職をしたいのだろうかと考えた。中学生の頃不登校になって高校に行きたくないと言っていたが、それは、勉強なんか自分でできるし、ぜんぶ自分でやりたかったからだった。そしてそのとき念頭にあったのは肉体労働で、それは、肉体労働以外の労働を知らないからだった。僕は本気だった。もう経済的には「自立」して久しいが(僕は修士のときから仕送りなしで生活している)、そんなものは自立でもなんでもないのだと思う。ただ好きで読んでいた本を自分で書けるようになったのに、いつのまにこんなにも弱気になっているのかと思う。でもいまはそんなことは考えないのだ。いまやっている仕事が終わるまでは、この程度の手間で撒ける種の手間を惜しむ必要はないのだと思う。

投稿日:
カテゴリー: 日記