5月31日

カフェドクリエで黒嵜さん、山本さんとの鼎談の構成を仕上げて、編集者にメールで送って、さて、と思った。さて…… さて…… いや、もうすることがないのだ。もう来月末の連載締め切りまで、細々したものをべつにすれば何も考えるべきことがない。隣のやよい軒に移って空いていたので4人席に座って、出てきた生姜焼き定食も、肉の焼き目とぱりっとした白さを残したもやしのコントラストが絶妙で、ここには炒め上手がいるんだと思った。有隣堂に寄って5階の人文書から下りながら本や文房具を眺めて、町屋良平の『生きる演技』が気になっていたんだったと見に行くと、そこに村上春樹の英語版短編集のセレクトを踏襲した『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』が面陳で並んでいて、どうしていまさらこれがプッシュされているのかと思いながら、3冊ともレジに持っていって、紙袋に入れてもらった。ベローチェに移って3冊をテーブルに出して、暇つぶしに寄った本屋で買った本をこうして読むのはいつぶりだろうと思った。大きな窓をそのまま、京浜東北線が横切っていく。

『象の消滅』の最初の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を読む。僕も彼とほとんど同い年で、見ようによっては失職した身なのだと思う。スパゲティーのゆで時間ばかり話題に上がるが、そもそも日常的にスパゲティーを作る人間はそれを「スパゲティーをゆでる」という言い方では言わないのではないかと思う。作り置きのソースで作るにしても(実際たぶんそういうことなのだが)、麺をゆでることより作り置きのソースを再加熱することをまず言うだろう。いなくなった猫を探して入口も出口もない「路地」に入る。ドゥルーズ&ガタリはカフカの小説を「入口の多数性の原理」(どこから入ってどこから出てもよい)で説明したが、春樹の小説は袋小路ですらない閉域から始まる。突然10分くれという電話がかかってくる。10分くれと言われてしまうともうその10分から出られない。あるいは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の、上がっているのか下がっているのかわからないエレベーター。ねじまき鳥は、猫のねじを巻かなくなってしまったのかもしれない。ちょうどいま読みかけのル・クレジオ『メキシコの夢』では、侵略前のメキシコの人びとが太陽(の神)に明日も戻ってきてもらうために血を捧げる儀式をしていたことが書かれていた。ヒューム的な懐疑に血で応答する。疑ってしまった以上それくらいしないとウソだよなと思った。その点現代の黙示録的な論調はむしろ、しゃかりきになって疑ってみせる白々しさと、それを指差されたときのためにわかってやっているんですという二重底のウソくささがある。

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カテゴリー: 日記