6月1日

昨日と似たような行程を、今日は妻と一緒に辿った。つまり、カラスの群れの声に起こされて、昼過ぎに外に出て、イセザキモールを関内のほうへ歩いて行って、昼食を食べて、カフェで本を読んで、本屋に寄って買い物をして帰る。違うのはサーティワン・アイスクリームでアイスを買って帰ったことで、土曜だからか家族連れが並んでいて、ようやくアイスを受け取った妻にアイスを買うだけで大事やったねとつぶやいた。帰ってシンクでドライアイスを溶かして遊んで、夕食にミートソースパスタを作って食べた。風呂上がりに僕はラムレーズン、妻は杏仁豆腐味のアイスを食べた。開けた窓から街の音が聞こえていた。

これで日記はおしまい。日記があってもなくても日々は続く、ということへの信頼みたいなものを育てるために、いつ終わってもいい書き方で毎日書いてきたのだが、1年目の途中に決めた丸3年でやめるということがこうして実際にやってくると、なにか恐ろしいような気もする。他方でやはりこのかたちで書くことにどこか狭苦しさを感じ始めてもいて、このかたちというのは、日記のことでもあるが、それ以上にたぶん、昨日のことについて睡眠というパテーションを挟んで今日書くことだ。でもそれによって日記を書く時間は、すでに昨日ではないがまだ今日でもないある種の人工的薄暮——国際線機上の夜のような——としてあって、むしろその手狭さは心地良いものであったこともたしかだ。だから結局のところよくわからない。いや、矛盾があると思うからわからないのであって、矛盾に見えるものが並んでいるという事実のほうが広いのだ。恐れているのもそのことかもしれない。信じているのものそのことかもしれない。

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カテゴリー: 日記