日記掲示板2

日記掲示板の投稿数が999件に達し、新規投稿ができなくなっていることに気づいたので新たに作りました(もしその間投稿できなかった人がいたらすみませんでした)。

ルールは同じで以下の通りです。
(1)以下のコメント欄に名前と内容だけを書く(アドレスは不要)
(2)名前は本名やどこかで使っているアカウント名ではなく、このサイトだけの通称を使用すること
(3)日記以外のものは雑談掲示板に投稿すること

ちょうど僕も1年続けた日記が終わって、新たに日記の続きを書き始めたところなので、みなさんもそれに並走するかたちで気軽に書き込んでいただければと思います。

2022/04/08 福尾

300件のコメント

  1. 夕方から実行委員会の反省会というか、振り返りのミーティングが設けられ出席する。だいたいこんなかんじだろうなとおもっていたとおりの事が各担当者の口から語られ、ぼーっとした頭で適当に相槌をうちながらときおり深刻そうな表情を貼り付けたりして何とか乗り切る。2時間半のだいたい1時間半経過したくらいからトラウマの再演という用語が意識の背景にずっと表示されているかんじだった。父に似た人に特別な存在と認められるためにあれやこれやとやっていた、あるいは母の背負わされた仲裁役というか数々のシャドーワークをやっていた、あるいは不仲な両親をなんとか和ませようと奮闘していた幼少期の自分を払拭しようとおもってやっていた、などなど。虐待の子供がやりそうなことを思いつきやすそうなパターンで一通り考えた後それらがどれも正鵠を射ているように見えて、そのわかりやすさにぞっとする。嫌なものを見た。これがもし正解だとして、あんまりじゃないか。こんなものが正解だったらやりきれない。だが、どうやらそのやりきれない仮説でだいたいの心当たりが説明できてしまうらしいと気づき、愕然とする。今日は薬を飲んだがもうそんなことはどうでもよくなってアルコールを追加で摂取した。あんまりじゃないか、そんなつまらない、浅い仮説で説明できてしまうなんてあまりにくだらなくて死んでも死にきれない。
    明日は来年の雇用について上層との面談があるが、もはやどうしたいという希望も沸いてこない。2時になる前に風呂に入らないといけない。

  2. 午後から出町柳で仕事をし、帰りにふたばの大福を買ってデルタで食べる。思ってもないこともさも思っているかのように喋って見せるような芸当だけが上達していく。そんなもんという割り切りができれば、これもこれでひとつの技術とみなして使いようがあるのだが、まだ情けなさと苛立ちがついて回るあたり諦めきれていない。気遣いと媚は似ているが本質は別のところにあり、自分のそれは媚ではという罪悪感がいつもある。誰かの好意に支えられたくて、先払いしているだけで別に相手のことなんでどうでもいいのである。正直。
    他人を根拠にする、あるいは投影することは避けるべき傾向で、褒められることではないのだが、自分の周り特に恋愛感情の生起にそれがついて回るようでそのしょうもなさにげんなりしている。仲裁に入りがちなのは鎹になってしまったことへの罪悪感所以であって、べつに仲良きことは美しきかなとかは思っていない。慣れというか習性というか。知識なんてそれをとったあとの残り滓という気持ちにしかなれない。

  3. 3か月前に始めたばかりの習い事を退会した。厳密に言うと今月いっぱいで退会することを講師に伝えたというのが正しいので、まだ来週もあるのだが、まあとにかくやめられたのでよしとする。昼から夜7時までいつでも好きな時間に行ってもよいというゆるさに惹かれてはいったのだが、実際に始めてみると欠席については割とゆるくなく、講師から直接メッセージが届いて欠席分の資料をいつ取りに来るのか決めてくれと言われる始末だった。欠席したのはもちろんこちらが良くないのだが、その問い詰め方というか遠慮のない距離の詰め方にちょっとひいてしまった。まあもちろん無断欠席した自分が悪いのだが。
     先月、つまり初めて3ヶ月目にして仕事の都合で11月は休会しますと伝えていたので、向こうにもモチベーションの明らかな低下は伝わっていたのだと思う。もしくは化粧をしない状態で申し出たので、顔色の悪さのほうが説得力をもったのかもしれない。毎度思うがもとから不健康そうな顔つきと顔色というのはこういう時に非常に役に立つ。身体なり顔なり、言葉よりよほど相手に物を伝えてしまうところがある。
     無事にやめられたので、帰りに無印良品によって今月で期限切れになる700ポイントを使って綿の肌着を買って帰った。明日は午後から京都の出町柳で仕事があるので、さっそく着用しようと思う。

  4. 同僚たちと鍋を食べに行き、だいたい1時間半くらいで切り上げてそれぞれ帰路についた。美味しいと評判の店に行ったこともあり、基本的に食事中の会話の内容は具材とか出汁についてのみなされ、個人的な困りごとや日々適当に発生する小ネタ話みたいなものが全く出ない飲み会になった。飲み会というか、わりと本当に食事会というほうがたぶん事実に即している。社会人になりたての頃、こういう話を中身がないと嫌って、しばしば軽蔑していたのだけれど、1年半経過した今となってはこういうどうでもいいものでそれなりに場を持たせるというのがそれなりに工夫と機転が要ると理解してからは、特に気にならなくなった。これを成長と呼ぶ人もいるかもしれないが、どちらかというと順応とか適応とか妥協とか読んでおきたい気持ちはまだ微妙に残っている。鍋の最中にビールを飲んで、解散したあと地元のスーパーに寄って炭酸水と米を買った。そして帰宅してからまたハイボールを作ってひとりで飲んだ。
    わざと意識をぼやけさせたかったのは、ここ2ヶ月ほど常に気を張っていないといけない状態が続いていたからで、それがようやく月曜に一区切りついたのだった。設営というのはスケジュールのほうに自分の身体を合わせにいく作業の連続で、ただでさえ世の中の時計に合わせられない自覚がある自分にとっては、自分の身体をどううまいこと脱臼させて壊しきらない程度に壊すかという作業に途中から転化していた。つらかった。ほとんど休みがなかったことで、あまり向いていなくて、やっていてもさほど面白さを感じるわけでもない作業を金のためにやらねばならないという現実が骨身に沁みてしんどかった。これが週休二日制なら、微妙な逃げ場があるので、そこまでつらくなかった可能性があるが、今回はほんとうに逃げ場がなかった。抗うつ薬に世話になったが、それは気分の落ち込みのハンドリングが、薬のハンドリングの難しさに置き換わっただけのような気もした。

  5. 数えるほどしか顔を合わせたことがない大叔父の通夜に出席した。最前列でときおりハンカチを目元にあてる顔見知りの女性二人をみて、母親のいとこ姉妹が自分の父親を亡くしたということを再認識する。その後ろで彼女たちの子供らも涙を拭ったりしていてるのをみて、この子供達は自分の祖父を亡くしたということを再認識する。あの場にいるひとりひとりに今置かれている固有の状況があるのか、ということは全てが終わってひとりになったあとにかんがえた。純文学だったらそれは大前提なのだろう。その根本から純文学はある理想を追求しているということにおいて、純文学と自分の現実がとても違うようにおもえた。
    母親や他の親戚の数人と話をして、彼ら彼女たちの日常への憎悪みたいなものを感じた。日常の悲惨さがお前にはわからない。お前は自由だな、というような。それは私の妄想だという可能性が高いが、こちらが何も感じていないかのように見据えられることのやるせなさが辛かった。しかしそれは単なる被害妄想というもので、そもそも承認欲求のなせる業というだけなのかもしれない。自分の惨めさを慰めてもらいたいという下心がまずあって他人の惨めさを掬い取ってやろうという魂胆が他人からは実は見え見えで、だから会話をしていてもぐちゃっとする。それは多分にありえる感じがする。
    私と家族の間には醜い軋轢の歴史がある。私は、どちらが真に正しいかということを気にしているというよりも(事実、あちらの正しさのほうが一般的である)、こちらだけが誤りを認めるということが気に入らないのかもしれない。しかし向こうだって、認知しているかどうかはわからないが自分の非について十分苦しんでいる、といえばそれはそうだろうと思う。だからあちらがいかに正しさを振りかざしてこようとも、こちらを見下そうとも、それには頓着しない、ということだろう。ひたすらにこちらの非を認め、向こうの非については私はかからずらわない、ということだろう。
    それは誠実ではないのかもしれない。あるいは、私は私のプライドを守りたいのかもしれない。私の正しさを主張することが恥ずかしいのかもしれない。しかし、日常の中の人間関係はそんなに崇高なものだろうか。
    私が関心があるのは何が誤りを起こすかであり、誤りの責任が誰にあるかではない。自分にも非があると認めることは自分にも責任があると認めることになり、そこが受け入れがたいのだと想像する。しかし、本当に責任など誰が負えるのか。問題を起こした人間から立場を奪うことで見せしめることがままあるが、もちろんそんなことで問題は解決していないし、責任を負えたことにはならないし、全体として次に進むための犠牲でしかない。それは百歩譲って集団にとって必要な犠牲でも、個人が責任を負うことができるという幻想の正当性を担保するものではない。
    もしどちらか一方がはっきりと没落することでその人間の誤りの責任がはたされる以外に集団は(家族は)次に進めないのならば、私は私のために戦わざるをえない。あるいはその集団を(家族を)去る以外にはない。私だって生きなければならない。

  6. 10月15日
    起きて宅地建築物取引士の資格試験を受けに東大の駒場キャンパスにいく。筆記用具を持っていかなかったので、教室の外にいた人に貸してもらえるか聞いたが貸し出しはないと。すぐそこの駅前まで戻って、すでに削ってあるえんぴつとMONOの消しゴムとプロテインクッキーをコンビニで買って、食べながら戻ったらすでに注意事項の説明がはじまっていた。
    一応丁寧めに問題文は読んで答えを書いたけど、スマホのアプリで宅建資格試験用のクイズをやってきただけだったので、ほとんどあてずっぽうで終わった。なぜ自分が宅地建築物取引士の資格試験を受けようと思ったのか、受けているのか、よくわかっていないから来年も受けるのかしらない。いま働いている会社がつぶれそうだと噂にきいて動揺した過去の自分が申し込んでいた。会社はとりあえず潰れないらしい。それを知ってからアプリでクイズをすることももうなかった。だからなぜ受けにいったのかわからない。興味本位というか、暇だったというか、気分転換がしたかったのかもしれない。
    夕方から下北沢で演劇を観る。少し前から駅前劇場でやる演劇をとにかく欠かさず観ることにした。今日ので三つ目。チケット代をケチろうとして学割チケットで予約していた。実際は学生ではないので当日までに学生証的なものを拵えていく寸法だったけど、いろいろ試行錯誤した結果結局めんどくさくなって断念した。ところが、学生証を持ってくるのを忘れたので通常価格で入りますと受付で言うと、学校名はなんですか?と聞かれ、偽学生証を作るはずだった学校名を咄嗟に告げると学生価格で入ることができてしまった。
    そして観た演劇は、がむしゃらに頑張っている感じと匙を投げてしまって諦めている感じがぎゅうぎゅうに押し込められた味の濃い、でも決して値段は安くない、どう食べたらいいのかわかりかねる創作弁当みたいな作品だった。コメディなので!と前置きしてしまえばいろいろなことを考えなくてもよいと思っているような感じがした。戸惑いつつも、AI生成で描いたようなタイプの整った顔の主演と思しき女性の青のシャツワンピの背中と脇の下に広がった汗染みを見たり見ないようにしたりして二時間やり過ごした。客入れが終わって暗転したら明転するまで拍手して歓声をあげてくれと前説で男性俳優が促したり、場面転換するたびにディズニーランド内で使われているような音楽がかかっていたり、終わった後も役者が舞台上に出てきての写真撮影タイムが設けられる等、全体的にあきれるほど軽薄なエンタテインメントにも関わらず、観客は楽しそうにしていた。だからこそ、か。だからこそ観客は楽しそうにしていた。この場で楽しそうにしないという選択ができるほどタフであればこんな場ところで演劇など観ているはずがないか、などと具にもつかないことを思いながら、目立たないように薄気味悪くすこしだけ口角をあげながら劇場をあとにした。

  7. 久しぶり。早朝、元彼からメールが届く。10年前の写真と文末には元気で。いつものLINEじゃないことに多少は身動ぎするものの、彼の便りは墓参りのようなものだ。
    年に一度か二度の墓参り、ご先祖様はどんな心地か。彼が思い出す私がまだ若者らしい気だるさをたたえていることは、私にとって救いなのだろうか。水涸れの夏、一滴となるだろうか。
    仙台育英の好プレー。暑さが和らいできた。

  8. 在宅。昼、にゃがナストマト鯖缶ドリアを作った。無限列車編見ながら食べた。1時前後に1時間ほど寝たような。原稿の構想や、中山元のあれを読んだり。これはとっとと読み終わりたいな。レールガンを見始めた。これは最後まで見るかも。実家から米などの荷物が届いた。真理奈誕生日会の写真を母に送った。コージーホールケーキ後半を食べ終えた。ホルモンまさるに10回ほど電話したが通話中。退勤後、18時着でメグジを食べた。かなり遅い金髪ショートの女がいて、流れがカオスになってた。5番席(左から1〜8)。野菜にんにく。麺量が多かった。俺が取り残されてたので、やや残して退転した。目黒で本を5冊返し、Xのアーチ、ウイルスちゃん、宮沢賢治特集ムックを受け取った。ユニクロでズボンを観察、カラフルズボンほしいウィークなので。有隣堂で生きる演技目当てで文藝買った、1500円もした。さっきの金髪カップルがなんと有隣堂の文具コーナーにいた。電車で帰って、ファミマでにゃのために40%増量納豆巻き買って、オオゼキでアイスコーヒー、ザバスドリンク、安売りのコンソメ、スライスチーズ×2、とか買った。原稿の構想、バルト論、中山元のやつ、など。2時就寝。

    *私はその日の情報を可能な限り残すための日記を毎日書いてる人間なのですが、こんなページを見つけたので昨日のをコピペしました。

  9. 福尾さんのツイッターアイコンがゆるいグラデーションから顔写真へと変わってしまった(顔写真がわるいということではなく)。色の淡さがすきだったこともあり、どんなグラデーションだったかもう一度見たいなと思ったら日記サイトのファビコンから確認できた。ピンクからグリーン。異なる色相が地続きとなっている、仲介を担うグレーが興味深い。

  10. TVerで「日曜の夜ぐらいは…」第四話。展開の予想は全然はずれたけれどどんどん面白くなってきた。
    それにしても清野菜名の父親と生見愛瑠の母親がクズすぎする。似たような人が家族にいる人はドラマでまでそんなのを見たくないかも知れない。日曜なのに重いドラマだという感想も多い。
    こういう感想が出てくるのはクズを演じる尾美としのりと矢田亜希子が凄くいいからでもちろんそういう脚本と演出もいいわけで、視聴者は役のクズにはマジにムカつきながら演じる俳優はスゴイと後で気がつく。
    身近すぎるとか重いと思って見ない人は面白くなくて見ないのじゃないからもし最後まで見たら別な感想をもつかもしれない。ドラマの登場人物にほんとにムカつくのはドラマがある境界を超えて離陸したからだ。これを境に作り手と視聴者がごちゃごちゃになる。
    ドラマを面白いと思うのはこういうのを見たかったというドラマをいま見ているからで、見たいのを見てるのは自分が作ったからだ、人が作ったのに。
    変な例えだけれどドラマを面白いと思うのは投票に行くより大事だ。
    とても過ごしやすい天気の一日だった。ウォーキング50分、腹筋30x2。

  11. 「それってパクリじゃないですか?」を一週遅れで観た。
    官能評価というどこまでも客観に近い主観による方法で食品や飲料水の味に関する特許が取れるという話だった。
    特許という私有も現実としてここまでせち辛くなっているのかと思ったがドラマではこの奇襲的な方法で利害が微妙にずれた大学と企業の共同研究の絆を守るというストーリになっていてそれはそれで面白かった。
    派手な展開はないし少し専門的な内容のドラマなので今回の視聴率は3.7%だった。でも芳根京子のキャラと演技を中心にうまくまとまっていて僕は好きだ。
    連続ドラマは3人位で演出を回すのが普通だし色々分業だからそういう難しさがある。キーはやっぱり主演俳優でファンタジーでもサスペンスでも主人公のキャラクターが独り歩きを始めたら勝ちだ。そうなったらある意味ストーリーがどうなっても楽しく観れる。
    日本テレビとしては最低5%は欲しいのだと思うけれど1%が100万人だとしても400万人は観ている。これが水商売だとしたら400万人が同じ時間に同じレストランで食事をして美味しいとかもっと甘い方がいいとか言っている光景が浮かんできてすごい変な感じがしたけどエンタメもレストランも似たようなものだ。
    娘は旅行から帰ってきてそのままボーイフレンドの所へ行って大量の写真を送ってきた。
    ウォーキング50分、腹筋30x2。

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