5月23日

 文体は無ければ無い方がいいと思っている。というか、文体とあえて呼ぶべきものがあるとすれば、それは自分の文章に出てしまっている凝りのようなものを引いて引いた先に残ってしまうものだと思う。いわゆるツイッター構文と呼ばれるもの、慣用句、ミーム、読者への呼びかけ、意味ありげな鉤括弧、ぜんぶ要らない。「少し重たい風に吹かれながら喫茶店に向かった」という文より「少し重たい風が吹いていた」と書いて次の文ではもう喫茶店にいる方がずっといい。風に吹かれながら歩いている自分を書くのではなく、風を書いたら歩くことが自動的に出てくるような書き方が理想だ。そうして凝りを摘み取っていくと、たとえば同じ文末が続くことがまったく気にならなくなってくる。文末や接続詞の操作によって演出されるのは実のところ書いている側の盛り上がりで、もちろん読者がそれに移入することもあるだろうけど、そういう共同性には先がないだろうとも思うし、書いていてしんどくなってくる。もちろんいろんなレベルにあるテンプレートを許さないと文章は書けないので、それを程度問題として捉え返す距離感が必要だということだ。それでも残ってしまうものとしてイディオムと付き合うべきだ。僕の文章では「剥がれる」という言葉がいい意味で使われることが多くて、「くっついてくる」はネガティブな意味で使われるのに、「両立可能」がポジティブな意味で使われる。そういう傾きに出くわすたびに、これにしがみつくことがこれを肯定することではないんだぞと思う。

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カテゴリー: 日記