10月19日

昨日の続きで批評について。とりわけインスタレーション・アート的な側面の強い現代美術の展示においては、作品−空間−私の関係を構築することが鑑賞の一部になっており、初手から作品と私の正面切った鑑賞が用意されているわけではない。もちろんあらゆる展評が作品の配置や展示手法を議論に組み込まなければならないということではない。あらかじめ切り取られた作品の稠密な分析があってもいいし、あらかじめ言説化された展示の主題の社会的政治的な意義の評価があってもいい。しかしそれで批評はどこにいくのか?というのが僕の問題意識だと思う。

すでに公的に縁取られた作品の高度な分析は論文でやればいいし、すでに公的にセットアップされた問題の議論はツイッターの高速回転に任せればいい(というかもうそうなっている)。対象に居着いても社会に居着いても、公共という価値を笠に着ていることに変わりはないし、それで批評は「批評空間」を形成し空間のほうはつねに比喩化されることになる。同じことの繰り返しだ。そしてこの繰り返しのなかで絶えず保護されているのが批評家の超越的なポジションであって——これは極めて実際的な問題であり、試写に呼ばれたりソフト化されていない作品のDVDやらYouTubeの限定公開リンクやらを送られたりなどの特権的なアクセシビリティとしてある——それが一方でファンダムから忌み嫌われ、他方で誰もが批評家として振る舞うのはある意味で当然のことだ。ビジネスクラスの乗客がゲートをくぐるのを遅々として進まない列から眺めることなんて誰も望まないし、スクショして嫌味を言えば誰でも批評家になれるのだから。ウロボロス的に正反対のことが互いをドライブしている。

しかしそもそも作品とは何か?という問いを「存在論」としてでなく具体的な物の配置から個別に問うことができるのが展評のアドバンテージで、つまり問いは、この空間はこれをどのように作品たらしめているのか/これが作品だとしてこの空間はどのような意味をもつのかという問いにスライドされる。必然的に対象に居着くことができないので、かえってそこからはみ出すものとしての私をどう動かすかということが文章に食い込んでくる。そうなればクライテリアは単純で、私を外に出してくれれば良い空間で、私を閉じ込めるならダメな空間だということになる(僕の美術批評はすべてこのクライテリアで批判/肯定が分かれていると思う。たとえば大岩雄典個展評大和田俊個展評)。

このときの「私」は実際の鑑賞経験そのものの担い手ではなく(エッセイを書いてもしょうがない)そこから人工的に演繹されるデコイであって、その「私」の出入りが風見鶏のようにリテラルな広がりの指標になる。理論や時評はその運動にくっついてくるものであって、そうして批評は「批評空間」からの出口を見つけることができるのだと思う。僕が批評が好きなのは、どんなジャンルでも書けるしそれ自体およそジャンルとは呼べないものだからだ。展評を梃子に批評のジャンルレスネスを考えてきたのだと思う。

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カテゴリー: 日記