10月18日

急に寒くなった。今日は批評についてちょっと書こうと思う。といっても批評とは何かみたいな話をストレートにするのは大変なので、自分の話から始めてみる。今まで書いた批評の文章(書評含む)を数えてみると21個あって、そのうち11個が美術批評だった。大抵が依頼があって書いたものなので結果として多くなったという側面もあるし、そこには他のジャンルと比べて作品の受容と批評の受容の距離が近いという外在的な事情もあると思う。それも良し悪しだが、僕が美術(書き始めるまでとりたてて興味はなかった)について書くようになったのは、「展評」という形式が面白かったからだ。

去年書いた「ポシブル、パサブル」という長めの文章はインスタレーション論と言語論を組み合わせたものだけど、展評の面白さの振り返りでもあって、副題に「空間の批評」と付けようかなと思ったりもしていた。「批評空間」を作るより空間を批評するべきではという、いつものよくわからない怒りがきっかけにあった。初期東浩紀における「空間」の比喩化への批判もそこから来たものだった。「批評」がひとつの空間みたいなものを形成することと、空間が鉤括弧に入れられて比喩化することの相関への批判だ。コロナ禍の混乱がはっきりと社会を覆い始めていた時期でもあって、リテラルな空間はどこに行ったのか?という疑問があった。

批評の対象——本当はなんでもいいのだけどここでは作品ということにしよう——があって、批評がある。展評が特殊なのは、多くの場合作品が複数あることと、それが空間的に展開されており、鑑賞者によって鑑賞の空間的・時間的な経路が異なるということだ。2時間の映画を見るとか10万字の小説を読むとか、そういう定量的な「ひととおり」の鑑賞というものがない(極論すればどのジャンルもそうだが、それが顕著である)。そして現代美術の場合、作品と作品でないものの境界は鑑賞を通して思考される(たとえば展示手法は作品の一部か?)。つまり、対象−空間−私の関係は鑑賞行為を通して初めて明確になる、というか、その関係を構築することが鑑賞のひとつの要素になっている(作品の社会的意義とか展示のステートメントを梃子に展評を書くことは、そのことから目を背ける方便になる)。

このまま書くとなんだか倍くらいの長さになりそうだし、ここまで1時間くらいかかってしまったので続きはまた明日にする。批評がどうやって作品に出口を作るかということを書きたい(メモ)。

投稿日:
カテゴリー: 日記