4月15日

 文章を書くとき、あれとあれとあれを言うみたいなトピック単位のアイデア出しだけして、あとは頭から書きやすい順番に書く。順序だったプロットをあらかじめ立てるのが苦手で、あるアイデアと別のアイデアのあいだの連関はなんとなくありそうな気がするという程度のものだ。盤がこちらとあちらに分かれて、あちらの大将を取る将棋やチェスのような直線的な書き方ではなく、置いた石、置かれた石でなんとなく盤の磁場が移り変わる囲碁のような書き方をしていると言えるかもしれない。こういう考え方は、ひとつには段落(間)の構成に跳ね返る。原理的には段落をどこで終わらせてもいいものとしつつ、実際的にはここでこの段落は終わりだとすることによって初めて次に書くことが開ける。アカデミック・ライティングと呼ばれるような書き方では総論と各論を文全体のあらゆるスケールでカスケード型に反復することが理想とされる。したがって各段落の終わり方は上位のスケールから演繹的に導かれる、というか、理想的には書く前から決まっている。踏み込んだ言い方をすればここには書くことへの恐怖がある。もちろんこうしたお守りに頼ることもあるし、学術的な場で文章を書くときはそうした構造との緊張関係のなかで書くことになる。選択は単純にどちらを取るかというものではなく、いずれかを取ったことで発生する緊張関係に、当の文章のなかでどのように向き合うかというものになる。この話のポイントは、仮に文章を将棋的な書き方と囲碁的な書き方に分けられるとして、前者が権威的で官僚的なもので、後者が革新的で芸術的だと言うだけでは済まされないということだ。文法と修辞の対立に比せられるようなものをここに見るべきではない。修辞学的に隠喩的/換喩的と言ってもいいし、言語学的に連辞的/範列的と言ってもいい。どちらでもいいしどちらでもない。フォーマット化されたリーダビリティに流し込むのでもなく、文体実践に居直るのでもなく、リーダビリティの開発を実験の対象にする必要がある。読者を作るということはたんにその数を増やすことではなく、新しいリーダビリティを作るということとイコールだ。

 明日はこの続きを書くかもしれない。

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カテゴリー: 日記