4月29日

 雨だった。しっとりした空気のなかにときおり、棚の上に置いていた台湾パイナップルの甘い香りが漂ってくる。こないだのバーベキューに百頭さんが買って来てくれたのが美味しかったという話をして、彼女が買って来ていたものだ。包丁で皮を削って身を切り分け冷やして風呂上がりに食べた。風も強くなっていて、前の家だったら揺れてただろうねと言った。確かにやたら揺れるアパートだった。

 親密さについて考えている。たとえば恋愛が厄介だなと思うのは、同じ思い出の共有に力点が置かれがちなことで、それは記念日やらクリスマスやらが象徴的な価値をもつことに表れている。それはそれで結構なことだと思うのだけど、そうしたステップの延長で結婚やら出産やらに幸せの形を代表させている何かがあることも確かだと思う。親密であるということを同じ思い出の共有だとしてしまうと、その親密さはいつの間にか第三者的な社会のなかでしか位置をもたなくなってしまう。かといって駆け落ちして誰も知らないところへ、みたいなのも違うし。結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかと思う。すっかり忘れていたことを言われると、何か自分の存在が分け持たれているような奇妙な感覚がある。とはいえそんなことあったっけとは、やっぱりなかなか言えないんだけど。

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カテゴリー: 日記