5月20日

 昨日弱音を吐いたら雑談掲示板に日記掲示板常連の人たちから優しいメッセージが来て、掲示板を作ってみて本当によかったと思った。今時インターネットでこういう経験ができるのも珍しいだろう。彼ら彼女らはここでは「日記掲示板の常連の人たち」以上の存在になりようがないし、そういうその場限りの存在であることによって生まれる優しさと、でもやっぱり関係ないという感じが背中合わせになっている。どうかこれが冷たく聞こえないでほしいと思いながら好きにすればと言うことがよくあるので気持ちはわかる気がする。他人の屈託に付き合うだけが優しさではない。

 ともあれ日記は続けるし、これからも毎日書くだろうけど、書き方は変えるかもしれない。でも変えられないのかなとも思う。たとえばその日読んだ本の引用だけとか、ツイートみたいな一文とか、写真だけとか、そういうのでもいいじゃないかと思う一方で、それなら書かない方がいいとも思う。あといつのまにかそうなってしまっていることとして、この日記ではこの120日間いちども——たぶんいちども——「僕」や「私」という一人称を使っていないということもある。一人称を避けるというのはあまりに陳腐な思いつきで、かつ、避けたからといって文章が非人称的になるわけでもないのは百も承知なのだけど、あるとき使っていないなと気づいてそれからは意識的にそうしてきた。「僕」と言いたくなるのはたいてい彼はこうだけど僕はこうだとか、みんなと違って僕はこう思うとか、実は僕はこうなんだとか、そういう臭みが混ざっているときだなと気づいて、「今日」とか「このサイトの日記」とか、そういうものに文の帰属先を一元化したいという潔癖症に駆られてきた。そういう愛すべき臭みのための場所は他にいくらでもあるだろうと。でもそれも変えられないのかもしれない。日々の変化より積み重ねてきた屈託の方がずっと頑固かもしれない。それが怖い。それが愛おしい。

 

 

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カテゴリー: 日記