5月27日

 近所を歩いていると老犬がベビーカーに乗せられているのをよく見る。歩いて雑草を嗅ぎ回らなくても楽しいのだろうか。犬は乗り物が好きなのかもしれない。犬と人間以外の動物が車の窓から顔を出しているのを見たことがない。眼だけの存在になることは、いわゆる「眼差し」について散々言われてきたように、窃視症的な主体=精神=男性と対象=身体=女性の分割であって、それはとにかくけしからんとされている。でも身体性の恢復といっても車に乗ったりするわけで、じゃあ車−身体をサイボーグとして考えようと言われても、ベビーカーに乗せられた老犬を見るとこれをベビーカー−老犬のサイボーグなんだとは言ってはいけない気がしてくる。彼——と便宜的に言うが——も飼い主も、それを歩けるときから続いているいつもの散歩だと思っているだろう。散歩は移動によって景色が変わることと、いつもの景色が日によって変わることの二重の変化を楽しむものだ。それを彼はひょっとしたら10年ものあいだ続けてきて、それがたまたま今はベビーカーをともなったものになっている。彼にまつわる技術的−身体的な変化より、それが同じ散歩であることの方がずっと——彼にとっても、そして哲学的にも——大切なことのように思える。彼が散歩を眼だけで楽しんでいるとするなら、それを窃視的だと言うのは間違っているし、それは君がサイボーグだからだと言うのは酷いことだ。

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カテゴリー: 日記