6月9日

 また朝まで起きていて、急にカルピスソーダが飲みたくなったのでコンビニに出た。普通のカルピスはあったけどソーダは青リンゴ味しかなかったのでそれと、目に入ったカップ入りのロックアイスを買った。公園まで歩いてベンチに座ってカップに注いで飲みながら煙草を吸った。涼しくて気持ちいい。ビールの空き缶が転がっている。外でお酒を飲むのも気持ちいいんだろう。このロックアイスに酎ハイを入れてもいいし、炭酸水とウィスキーを入れてもいいし、赤ワインをそのまま入れてもいいかもしれない。ぜんぶコンビニで買える。赤ワインとオレンジジュースを入れてサングリアっぽくしてもいいかもしれないし、白ワインをこの青リンゴカルピスソーダで割って、そこに冷凍のカットライムを入れてもいいかもしれない。お酒は飲まないけどいかにも美味しそうだと思う。光がだんだんくっきりしてくるのを感じながらそういうことを考えていると何かとても充実した気分になって、帰り道にはもう素直な眠気を感じていた。

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6月8日

 ツイッターで流れてきた(真面目なほうの)スポーツ誌『Number』の記事を開いてみる。棋士のインタビュー。内容より記者の手つきのほうが気になった。こういう作り方の記事は人文系、美術系の媒体ではぜんぜん見ない。インタビューというより取材ルポのような書き方で、取材に至った経緯、相手の様子の描写、記者の心情のなかにときおり相手の発言が鉤括弧で括られて挿入される。『眼がスクリーンになるとき』を出したときに朝日新聞にインタビューを受けて、それが記事になったときに感じた驚きを思い出した。文脈の設定、直接話法と間接話法の使い分け、そこに加えられる注釈や考察。ほとんど哲学の論文の書き方と同じだと思った。われわれもテーマを提示し、文脈を抑え、直接話法で言質を取りつつそれを間接話法にスライドさせ、注釈し図式化し、もとのテクストから新しい相貌を引き出す。いわゆるドゥルーズの「自由間接話法」的なスタイルはこれらの各ステップの段差を極端に圧縮し滑らかにしたもので、どこまでが引用でどこからが介入なのか読者は容易に解凍できない。でも生身の人間を相手にこういうことをするのは全く別種の難しさもあるんだろう。ちょっとやってみたいけど取材したい人が思い浮かばない。

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6月7日

 昼過ぎに起きて、ずっと頭がすっきりしないまま1日が終わった。夜に原稿と関係ない、コンピューターの仕組みと歴史についての本を読んでいてそれでやっと息抜きができた感じがした。休むのも難しい。ツイッターやユーチューブは気を紛らわせてはくれるけど休んでいるという感じはしないし、ずっとごろごろしていても余計頭が重くなるし。結局本を読んで音楽を聴いて家事をするのがいちばん気が休まるのだ。そういうちょっとめんどくさいことがいい。ちょっとめんどくさいからこそ、秒単位で切り替わる刺激を浴びなくても夢見の悪い昼寝をしなくても休みが休みとして過ぎていく。

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6月6日

 結局朝8時半まで書いてなんとか出来上がってゴミ出しをして寝た。日記を毎日書いていれば原稿も少しは楽になるんじゃないかとも思っていたがそういうことではないらしい。書いていてこれは日記とは違うなと思うのは楽しくもある。日記、エッセイ、批評、論文。それぞれにゲーム性というか、マナーと楽しみ方があるけど、言いたいことを言うというところは変わらない。どれかひとつばっかりだと形式のほうに乗っ取られてしまうこともあるだろう。研究者は往々にして英語論文の書き方みたいなことには熱心なのに、批評やエッセイについては書けば書けるものと思っている節があるような気がする。でも案外、論文をクリアに書くことよりエッセイをクリアに書くことのほうが難しかったりする。

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6月5日

 締め切りがヤバい原稿を書いていたけど、結局まだ終わりは見えないので明日のほうが大変そう。諦めて日記だけ書いてしまって寝よう。書いていると自分の集中で息が詰まってしまう感覚があって、それをいなすために煙草を吸ったりするのだけど、それでスマホを触ったりしているうちになかなか作業に帰って来られなくなることがある。ポモドーロ法というタイマーをつけて25分作業5分休憩をひたすら繰り返すやり方もあるようだけど、執筆には向いていないような気がするし、想像するだけでキツくて嫌になる。作業も嫌だし時間割も嫌だしぜんぜんできないだろう。締め切りは時間を等分しないので好きだ。たとえば20日後の締め切りまでに4000字書かないといけないとしよう。毎日200字ずつ書く人なんていないだろう。たいてい以下のようになるはずだ。最初の10日は何もしない。1日200字ノルマが1日400字ノルマに変わるのなんてなんでもないことだからだ。15日目にやっと1日800字ノルマになって、頭のなかにざっと書きたい内容を再現できることを確認して、明日くらいからやろうと思いながら寝る。あと4日。最初の段落を書いた達成感で終わる。あと3日。ボディの部分が思ったように進まなくて焦りつつ終わる。あと2日。やっと本腰が入って、あとは最後の1日で走り抜けられるか、「本当の締め切り」を当て込んでふて寝するかだ。明日どうなるか。

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6月4日

 誕生日。29歳になった。まだまだ若いと言えてしまうだけに踏ん張りの効かない歳なのかもしれない。何歳だからどうだというのは占いと一緒でいいところだけつまめばいいのだろう。ちなみに大和田俊の誕生日診断によると、1992年6月4日は「92と64で考えると同系列で整合性を感じるが、互換性がない」ということらしい。この取り付く島のなさのほうが祝うにあたいする感じもする。

 馬喰町のαMまで黑田奈月「写真が始まる」を見に行く。写真を扱ったふたつの映像作品がメインで、どちらも素晴らしい作品だった。とくに訪問介護者がかつての訪問先の部屋の写真を見て語る《部屋の写真》は、母が訪問看護をしていて、小さい頃から訪問先のかわいいおばあちゃんの話を聞いたり、患者さんが亡くなって悲しそうにしているのを見ていたのもあり強く心動かされた。彼らが写真を語る言葉から、その部屋に住んでいた人の性格や習慣と同時に、彼らの目が何を見ているのかが浮かび上がり、ひょっとすると1分間を越えているだろう、作品に挟まれるただ無音で写真だけを見る時間がとても豊かなものに感じられる。その豊かさをあくまで——属人的なものでも社会的なものでもなく——写真の豊かさとして扱う手つきが、かえって写真を取り巻く人々のその人らしさが際立つようで、とても不思議だった。

 展示を思い返しながら歩いていて、仮に「絵画論:千葉正也/ロザリンド・クラウス/本山ゆかり」としていた今書いている文章のタイトルを「ジャンルは何のために?:絵画の場合」にしようと思いついた。黑田さんの作品にある写真への態度と、こないだ愛知で見た本山さんの展示の絵に対する態度がどこか重なるようだったからだ。それは写真や絵画をそれぞれひとつのジャンルたらしめているものを、あくまでその外部に触れる回路として使う態度だと思う。外部を取り入れることが目的化することは教条的な自閉と大差ない。これはポストメディウムとメディウムスペシフィックは大差ないということでもあるだろう。

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6月3日

 2日の夜、仕事のあとしんどいと言って寝た彼女が起きてきて熱があるということだった。少しパニックになっていたので病は気からよと言って寝させた。昼に発熱外来から帰ってきたときには熱もだいぶ落ち着いていて、結果は翌朝までわからないけどまあ大丈夫なんじゃないかと話した。それでもぐったりして寝ていたので夜にひとりで散歩に出た。まだ8時過ぎなのに深夜1時くらいの感じだ。普段朝まで開いている居酒屋は普通に営業していて、夜閉める店はもう閉まっている。開いている居酒屋の前を通ると、女性がイヤホンをつけたままご飯を食べているのが見えて、ひとりだけやよい軒にいるみたいで不思議な感じがした。仕事帰りのようだし、自炊は面倒だしコンビニは飽きたしということかもしれない。出勤はあるのに店はすぐ閉まるというのは大変だろう。セブンでアイスコーヒーを買って公園で煙草を吸っていると、40歳くらいの女性がゆっくり走り抜けていった。コットンの半袖Tシャツを着た二の腕にスマホを入れるケースを巻き付けている。不慣れなフォームを見ているとそれを買ったときの微妙な葛藤が頭のなかに入ってくるようですぐに目を逸らした。翌朝病院から電話があって結果は陰性ということだった。

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6月2日

 そういえばこないだ応募したプレステ5の抽選販売の返事がないので落ちたのだろう。調べて別の店でまた応募した。当たったら当たったで5万円くらいするし、本当に欲しいのかよくわからない。家にあるプレステ4についても、あって嬉しいのかどうかわからない。毒親という言葉が嫌いなのは、その言葉を発する人のうちにある毒親性を温存し増幅しさえするだろうからだ。精神分析はそれを超自我と言う。毒親と言う側と言われる側の分割は、言う側の心のなかで反復されるだろう。引き出しに入ったコントローラーを取り出すときに子供のゲームを捨てる典型的に毒親的な衝動を静かに感じている。ブルシットジョブという言葉も嫌いだ。いずれもたんに社会的な分断に寄りかかっているだけでなく、その言葉を使う人を自罰的、自嘲的な態度にスタックさせてしまう感じがする。自分の仕事なんて「ブルシットジョブ」だと言うことがある種の安心をすら与えてしまうとするなら、いったいどうすればいいのだろうか。ぜんぜんわからない。

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6月1日

 もうすぐ誕生日で、29歳になる。自分が29歳になることより、くろさきさんやろばとさん(たまたま誕生日が近い)が33歳になることのほうがびっくりする。みんな28歳くらいだったのに。昔から少し年上の人にくっついて新しい場所に馴染むことが多かった。最初はふたつ上の兄で、彼が同級生と遊ぶのに付いていってもいちども嫌がられたことがなかったと思う。僕だったら嫌だったろう。中学も高校も先輩とよく遊んでいたし、大学に入ってからは読書会で会った小倉さんや米田さんに仲良くしてもらって、自分の所属先には哲学研究をやっているひとがいなかったので、彼らを見て大学院生がどんな感じでやっているのか少しずつ学んでいった。それから首塚に行くようになって、くろさきさんとろばとさんと一緒に『アーギュメンツ#2』を作ったり手売りでそこらじゅう回ったりして、批評や現代美術がどういう世界なのか、膨大なお喋りを通して掴んでいった。それはたんなる知識ではない、もっと雑味の多い何かだ。これからまた新しい場所に行って、そういう人に会うことはあるんだろうか。ないかもしれない。あるいは僕がそういう人になることもあるんだろうか。それもないだろうなと思う。

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5月31日

 もう5月も終わり。月末締め切りだったものはひとつ終わらせていて、もうひとつは1週間締め切りが延びて、もうひとつはもともと締め切りは「目安」だったのでふわっとさせている。絵画について書くふたつめの原稿を進めていて、展示での作品の位置関係について整理するために、写真を撮っておけばよかったと思いながらノートにスケッチのようなものを描いたりした。会場のマップはあるのでそれをもとに特定の地点からどう見えるかを再構成してみる。そういう慣れない作業をしたせいかはわからないけど、ベッドに入るときにゆっくり空間が回っているようなめまいがして、起きてからもしばらく続いていた。

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