6月30日

 ここのところシャワーだけで済ませていたが今日は湯船に浸かった。もう雨は止んでいて、かえって空気が湿って感じる。昼に散歩をしながら「やさぐれ方を忘れている」という言葉が思い浮かんだ。何かきっかけがあったのだがそれは忘れた。読書エッセイのようなものを頼まれていて、テーマも選書数も自由で、「○○ときに読む本」というタイトルだけがそのシリーズの決まりとしてある。そうは言っても読む本はそれが読みたいから読むことばかりのような気がするし、その外側にある気分みたいなものはあんまり考えたことがない。デカルトが読みたかったらデカルトを読むし、料理本が読みたかったら本屋で料理本の棚に行くし、と思っていた。紹介したい本ありきでタイトルを考えることになりそうだなと。でも「やさぐれ方を忘れたときに読む本」はいいかもしれない。たしかに忘れているような気がする。僕個人の境遇や心性の変化もあるだろうけど、これはコロナ禍(に代表されている社会の変化)が奪っていったもののひとつかもしれない。でも17歳だか20歳だかのひとたちはいまも立派にやさぐれているのかもしれない。夜中に音楽を聴きながらひたすら街を歩いたり、望みの薄い相手にえいやと通話したいとメールしたりして。書いていたらまた雨が降ってきた。問題はやさぐれ方を忘れたときに何を読むのかということだ。

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カテゴリー: 日記