7月20日

 これは非常にあやふやな話なのだけど、「Aと思ったらB」とか、そういう両立なのか切り替えなのか曖昧な言葉を使うのが好きで、内容的にもそういうことをたまに書く。文字通りには両立ではなくAを否定してBを肯定しているのだけど、そう截然と割り切れない感じがある。その感じはどこからくるのか?たぶんひとつにはAだと思わなければBに気づかない感じがあるからだろう。Aにある何かがBの導出を支えていて、導かれたBにはAの幽霊がくっついている。東浩紀的に言えば「可能世界の記憶」がくっついている。

 あと最近は「街には悪そうな人がたくさんいる。というか、昔悪かったけど今はもうくたびれている感じの人がたくさんいる」(6月11日より)みたいな「というか」もよく使う。こっちのほうが知的な判断という感じで、この場合「より正確に言えば」くらいの意味なのだけど、前件と後件の関係は、全体を読んで遡行的に捉えないと特定できない。その感じがナマの思考っぽくて好きなのかもしれない。

 たぶんこれは文法的には接続助詞である「と」の広範で曖昧な機能に関わる話だ、と思って、ciniiで「日本語 接続助詞 と」とかで調べたけどなかなかめぼしいものがヒットしない。そもそも「と」がキーワードとして立っているものだけに検索をフォーカスするのが難しい。なんとか見つけたのが豊田豊子(ものすごくいい名前だ)という方の「接続助詞「と」の用法と機能」という40年くらい前の論文だ。そこでは「と」の機能が5つに分類されている。

  1. 連続:太郎は部屋に入ると、窓を開けた。
  2. 発見:太郎がうちへ帰ると、花子がいた。
  3. 時:夜になると、雪が降った。
  4. きっかけ:窓を開けると、寒い風が入った。
  5. 因果:花子はお金があると、映画を見に行った。

 言われてみればそうだという分類で面白い。しかしやはり後件が示されないとどの機能を担うものか特定できないことこそが「と」のヤバさなんじゃないかと思う。「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」が最も有名な「と」のヤバさが効いている一文だろう。普通に読めば発見の「と」だけど、「雪国」はこの小説そのものであるわけで、トンネルを抜けること=本を開くことは雪国に入るきっかけでもある。その多重性が暗→明という極めてシンプルな印象のなかに閉じ込められている。やはり総じて論として立てるためのフレームを設定するのが難しい話だ。まだしばらく頭の片隅に放り込んでおく。

 

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カテゴリー: 日記