8月10日

 日記を書くのが嫌で先延ばしにしていたらもう昼の3時。昨日は何をしたっけ。哲学の学会誌に載る書評のゲラを返した。原稿依頼のメールが来て、まだそのままにしている。塩と柚子に漬けられた鰹のタタキが美味しかった。松江に来て10日が経って、何かものを考えるということへの切迫を感じにくくなってきたような気がする。車移動が多いし、近所に雑踏というものがないので、刺激が単調なんだと思う。こういうとき読書は捗る。あとツイッターは雑踏代わりになる。すれ違いざまの観察や思いなしもその場に残せる。雑踏に見えて実際は映画のエキストラみたいに選ばれた人ばかりなのが難点だが。嫌だが書いてみればほんのちょっとだけど飛べる。最長距離は仕事で出せればいい。ここではなるべく悪いコンディションの平均距離がわかればいい。

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8月9日

 低気圧で一日中頭が痛かった。後頭部が濡れた段ボールのように重く、画面を見ると視神経が引き攣るように痛い。こないだ本屋で買ってみたドン・ウィンズロウの『失踪』を手に取る。たまにこういうジャンル小説が読みたくなる。夜中までかけて一息で読んでしまった。主人公の刑事はアメリカ中部の地方都市で誘拐された少女を追ううちに、ニューヨークの富豪たちの闇に飛び込むことになる。『True Detective』とかそういうよくできた1シーズン完結のクライム・サスペンスのような引き込みもあり、チャンドラーのマーロウものやピンチョンの小説のような細部が錯綜しネタと伏線の境界が曖昧になるような濃密さもある。名前も知らない書き手だったけどすごい人だ(実際すごい人のようだ)。職業的・行政的なセクターの境界、州境、人種、経済的階層、そういうそれぞれに差異を抱えた異質なカテゴリーを跨ぎながら国道を走り、電話をかけ、銃を撃つアメリカ的な物語の強さを改めて感じた。

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8月8日

 こちらでも相変わらず炭酸水とコーヒーばかり飲んでいて、近所のコンビニでキリンレモン無糖とかウィルキンソンの桃味とかを買い込んでいる。夜にご飯を食べたあとに冷蔵庫を開けてキリンレモンを飲むと、何か幸福な甘みが口に広がって、さっき酸っぱいものを食べたからそう感じるのかなと思ったけど、間違えて普通のキリンレモンを買っていただけだった。それにしてもあのひと口めの甘さは幸せだった。そしてそれはもう帰ってこない。夜中には台風が近づいてきて、ベランダの洗濯竿を床に下ろしておいた。

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8月7日

 西へ向かう。左手にえんえん宍道湖が見える。出雲大社の前を通りがかって北に折れて、海沿いの曲がりくねった道を抜けると日御碕に着く。真っ白い灯台の麓に、細かい角柱が敷き詰められたような崖が広がっている。またぐねぐねと車を傾けて戻る道から見る海は西側に張り出してきた分厚い雲の鈍色を反射していた。街中を運転しているときはそんなに意識しないが、崖に沿って繰り返される細かいカーブを曲がっていると、ハンドルを倒す方向に首を振るだけでなく頭の位置をずらすことが大切だと気づく。フロントガラスの横にある柱を顔の正面に置くようなかたちで。マーク・チャンギージーが、人間の眼が正面に並んでいるのは眼前の障害物を透かして見ることができるからだと言っていたのを思い出す。しかしあの柱はなんなのか。車幅の感覚は自分の体の延長として体得される(べき)みたいなことはよく言われるけど、あの柱はそういうサイボーグ的な説明図式に収まるものなのか。

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8月6日

 部屋は10階にあって、上り降りするとき、エレベーターのドアのスリットから廊下と床が交互に9階ぶん見える。ゾートロープみたいだと思うけど、見えるのは奇妙なくらい似通った映像で、一様に埃を被ったエアコンの室外機のホースの向きがそれぞれズレているくらいだ。映画に挿入される静物画的なショットのように。こうやって映画を見ると面白いだろうかと思う。フィルムの上を滑る箱から見る映画は。それ自体はべつに面白くないけど、フィルムが動いてもわれわれが動いても同じことなんだということは面白い気もする。止まってあることが、帰属先から引き剥がされた運動のなかに投げ込まれることでもあるようなこともある。昔の映画の撮影現場では、モーター音とともに大量のフィルムがカメラに吸い込まれるなか、動きの少ない場面を撮影したりもしていたわけで、そういう状況ではやはり運動というものについて、動いているあれを止まっているこれで見る・撮るというだけに留まらせないものが、マッシブな存在感をもっていたのだと思う。

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8月5日

 3月に引越してこんなに長く家を開けるのは初めてだ。だからか、横浜の家のことを考えるとき気づくと引越す前の家をイメージしていることがある。ベッドと、食卓とデスクを兼ねた大きい机くらいしか家具がない薄暗い部屋。ああ違ったと思い浮かべるのが新しいほうの部屋。今いるのは5日目の知らない、知らない人の家財が残された部屋。それぞれに遠く、それぞれに近い。

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8月4日

 とにかく暑い。近所のコンビニに寄って珈琲館(まさか松江に来てまで珈琲館に行くとは)まで歩くだけでへとへとになった。中で吸えないので外で煙草を吸っているとベンチに座ったおばあさんに話しかけられた。若さん、若さんは松江の人かね。違います、いい街ですね、暑いので気をつけてくださいとかしばらく話をして、戻るときに見ると補聴器だと思っていたものは耳に詰めたティッシュだった。

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8月3日

 山陰も恐ろしく暑い。最近MacBookのキーボードがどうにもおかしくて、結構な頻度でAのキーを2回打鍵したことになってしまう。「あ行」の文字を打とうとすると「かあ」とか「さあ」みたいになる。でもそんなに続けてタイピングすることはなくてちょぼちょぼ書くだけなのであんまり気にならない。ちょっとつっかかるくらいのほうが結果的に誤字も少なくなると思うし。僕はもともと誤字が少ないほうだと思うけど、それはたぶん書きながら何度となく読み返しているからだと思う。書かれるべきものを導くものの重心が、頭のなかの思いなしからすでに書かれたものの方へ、少しずつ移り変わっていく。とくに日記は書くことがあらかじめ決まっていることが少ないのでそういう遷移を明確に感じる。頭のなかには書いても書かなくてもいいことしかないので、そうやってやるしかない。

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8月2日

 松江2日目。久しぶりに車を運転して近くのイオンまで行って昼ご飯に回転寿司(美味しかった)を食べてぶらぶらして、宍道湖を囲む道にあるスタバで飲み物を買った。6月の誕生日にツイッターのフォロワーさんからスタバのギフト券をもらって、そんなこと初めてだったので驚いたのだけど、せっかくなのでありがたく使わせていただいた。堤防もなくちょっと階段を降りるともう水面で、座って煙草を吸っていると川よりこもった匂いがした。水と地面の関係が玄関と土間みたいに同じレベルにある街だと思う。部屋には縦長の画面を上下に並ぶ4つのわずかにたわんだ帯に分割して、下から緑、青、緑、薄い青で塗ったシンプルな絵が飾られている。こちらの岸、川、向こう岸、空の奥行きが平坦な色面に起こされ均されている。サインされた名前を調べるとベルナール・カトランという1919年生まれのフランスの画家の作品らしい。ヤフオクでエディション150くらいのリトグラフが3万円くらいで売られている。かつてのこの部屋の持ち主もベランダから見える湖の景色にこの絵の平坦さを重ね合わせたのだろうか。

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8月1日

 8月。朝早く起きて羽田に行って米子空港に降りて、松江まで来た。14日までここにいる。寝不足と移動の疲れで寝ていたのでまだ夜にコンビニまで歩いただけだけど、米子からの道で中海が、部屋からは宍道湖が見えて、すぐ北には日本海があるわけで、水の街だと思う。実家がある井原市は岡山の西南部だから、ちょうど中国山脈を挟んで対照の位置にある。でも感覚としてはそのままずっと南に行って太平洋に面している高知の街に似ている。松江と高知を折り合わせると井原は谷底に沈む。瀬戸内海はそういう場所なのだと思う。

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