9月1日

メモに「ウィトゲンシュタイン、わかる」とあったのでそれについて。もう9月で、それを待っていたかのように雨が降って急に涼しくなった。2ヶ月くらいかけてちょぼちょぼ読んでいた『哲学探究』を読み終わる。今年出た鬼界彰夫の訳。今まで全集版と丘沢訳でトライしたのだけど、なかなかとっかかりが掴めず、そんななか鬼界訳には独自の章立てと梗概、解説、充実した訳註が付され、柔らかくも文構造がはっきりした訳文でとても読みやすかった。『哲学探究』はそれぞれ番号を振られた693個の「考察」がえんえんと続くだけで、章や節といったメタな階層が全くなく、それぞれの考察をこれは理論的主張、これはその個別事例、これは別のトピックの架橋といった感じで、大局的に位置づけながら読むのが難しかった。今回付された目次によってその難しさは大幅に柔らげられてはいるものの、テクストそのものの性質がのんべんだらりとしているので、掴みどころのなさはどうしても残る。ガイドがついているからこそそこに収まらないものも感じられて、それが面白かった。

それで、何がわかるのかという話なのだけど、内容というよりこういう書き方が求められる理由がわかる気がしたということだ。これはひとことで言えば「本」になることを想定していない書き方だと思う。少なくとも本的なグランドデザインを想定しておいてその中身を埋めていく書き方ではない。言語とはどういうものかという問題から哲学とはどういう言語である(べき)かという問題へと徐々に重心が——ミクロに行きつ戻りつ——スライドしていく。しかしこうした整理も反省的なものであって、読んでいるときのどこにいてどこに向かっているのかわからない生々しさのほうがこの文章のリアルだと思う。それは思考そのもののリアリティでもあって、思考、意味、理解に想定されてきた瞬間性が溶かされて——章構造の忌避はその形式面だ——フィジカルな時間に置きなおされていく。2ヶ月くらいかけてちょぼちょぼ読むといい。

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カテゴリー: 日記