10月7日

部屋の掃除をした。アニメ『映像研には手を出すな!』を見始めて、面白くていっきに12話見てしまった。たまたま立て続けに見ただけだというのもあるが、『ドライブ・マイ・カー』と作品内作品の「メイキング」が重要な意味をもつということが共通していて、こういう作品が出てくるのはどういうことなんだろうと考えた。ひとつにはジャンルが先細りすることへの危機意識があると思う。作品の見方の提示を作品に組み込むことでジャンルの面白みやリテラシーを伝えることができる。いつかの日記に、哲学におけるいわゆる言語論的転回——ウィトゲンシュタインであれハイデガーであれ——は、哲学がおのれの存在意義を自身が用いる言語そのものに見出すという撤退の果てで起こったことなんだと書いた。思弁的存在論とかはそういう撤退のグレート・リセットを図るもので、しかしそうした身振り自体が哲学内的なトレンドのひとコマに終わってしまったことにも根深い何かを感じる。対してデリダは誰よりも撤退に振り切ったひとだと思う。彼は哲学をすることを哲学テクストを読むことに限りなく近接させるが、それは私はこう考える、そしてそれが透明な言葉で伝達されるという裸の哲学みたいなものの不可能性を、いかにも裸らしき哲学者のテクスト自体から引き出して見せるためだ。作品内作品のメイキングを見せることが作品になることと類比的に、過去の作品のリーディングを見せることが作品になる。これはある種の批判的マテリアリズムであって、各ジャンルは自身が用いるマテリアルを探究し、それを取り巻く制度を批判する。でもこれはジャンルの縮小再生産的な自閉と裏表になっている、というか、追い詰められたから自閉しているのか自閉しているから追い詰められるのかもはや区別がつかない。僕は哲学が他のジャンルに対して批評的関係をもつとはどういうことなのかということを博論で考えたけど、それはこういう問題に応えるためだったのだろうと思う。

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カテゴリー: 日記