11月30日

振り込み通知のメールが来ていて、何かと思ったら『眼がスクリーンになるとき』の電子書籍版の印税だった。にっこりするような金額ではないがいまでも読まれているのは嬉しい。他の人がどうか知らないが、僕はわりと過去の仕事に報いるというモチベーションが強い。まああれは若書きだからとか、絶対自分に言わせないという憎悪に近い感覚で書いたし、いまでも自分はちょっと気を抜いたらそういう、いけすかない大人になってしまうんじゃないかという恐怖がある。だから局所的には修正や発展はありますが、大局的にはwin-winでやっていけたらという、見ようによっては及び腰な交渉みたいなものが、かつての仕事といまの仕事のあいだで行われている。それでいまはずっと書籍化のために博論を書き換えていて、これもバチバチに頑固なスタイルの建築に、ここに手すりだけ付けていいですかねとか、この空間はこう割ったほうがむしろ動きが出ませんかとか、そういう交渉で頭をいっぱいにしている。作業のために読んでいた『差異と反復』の文庫版の訳者あとがきでドゥルーズがポスト構造主義と言われると嫌な顔をしたという話があって、でもポスト構造主義だよなあと思いながら風呂に入った。僕の構造主義、ポスト構造主義の定義は乱暴で、前者は科学で後者は哲学、以上。というものだ。面倒なので詳しくは書かないが、そういえば後期ラカン再評価と後期レヴィ゠ストロース再評価は同時期(日本であれば松本卓也の『人はみな妄想する』とか、ヴィヴェイロス・デ・カストロの邦訳が出た頃)に進んだ気がするけど、あれはなんだったんだろう。マニグリエの後期ソシュール再評価もあるし、彼はカストロ論も書いている。僕はとしては、たとえばラカンであれば大文字のシニフィアンだけじゃなくてサントームとか言ってて(もちろん誇張して単純化している)という後期への全ベットより、あくまで前期後期の緊張関係が気になる。そこにもいろんな交渉があるだろう。

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カテゴリー: 日記