2021年1月20日、自分でサイトを立ち上げて、それから1年間日記を書いた。それら365日ぶんの日記をまとめ、『日記〈私家版〉』として自主制作で、365部限定で書籍化した。
理由というものがだいたいそういうものであるように、日記を始めたのにも複合的な理由があった。
直前の年末に博士論文を提出して、これからしばらく暇になりそうだなと思ったこと、
ドメインを取ってサーバーを借りてサイトを作ったはいいものの、何か継続的なコンテンツがないと意味がないなと思ったこと、
博論で文字通りにも比喩的にも肩がガチガチに凝り、かといってツイッターは「言うべきこと」で溢れていて、むしろ言うべきことの少なさのために書かれるものが、僕を癒しあわよくば読者を癒すこともあるのではないかと思ったこと、
籠りがちな生活のなかユーチューバーたちが毎日投稿する短いなんということのない動画に、たんにそれが毎日投稿されるということ自体にどこか救いのようなものを感じていたこと、
ゴダールがどこかのインタビューで、若い作家へのアドバイスとしてまずはiPhoneで自分の一日を映画にしてみるといいと言っていたこと。
こうしたぼやっとした動機にそのつどなるべく素直に応えながら、同時にそれを少しずつ分極しながら、日々切れ切れに書いてきた。
ソーシャルでイベントフルな、「密」を避けることでかえってどんどん狭くなっていく世界に吹く、かすかな隙間風に乗って飛んでいってしまうような出来事や断想は、書いても書かなくてもある。しかし書くことでしかその「ある」への信頼を築くことはできない。





(写真:竹久直樹)
購入方法
販売は主にBOOTHの個人ショップで行います。販売者・購入者が互いに住所を知らせることなく配送できるサービスを利用しているので安心してご利用ください。
また、以下の各書店でも販売されております。
取扱店 (在庫状況は各店舗にお問い合わせください)
日記屋 月日 (下北沢)
本屋 B&B (下北沢)
ジュンク堂書店池袋本店
ブックファースト新宿店
仕様
定価:3200円(税込)
365部限定発行、各部にエディション表記付き
本体:B6版、リング製本366ページ(本文用紙のみ、表紙なし)、専用外箱付き
クレジット
発行日:2022年4月1日
著者・発行者:福尾匠
デザイン:八木幣二郎
印刷:藤原印刷株式会社
製本:鈴木製本
私家版制作ノート
最初に考えたのは作るとしてもあんまりたくさん刷りたくないということで、それはそんなに売れないだろうからということもあるし、在庫を抱えるのは嫌だということもあるけど、いちばんは自分の日記が1000人の部屋の本棚にあるのはなんだか気味が悪いなと思ったからだ。だから「私家」版として、ある程度日記の更新を追ってくれていたひとたちに届くくらいがちょうどいいなと思って、365日書いたのもあって365部限定とすることにした。
造本については1ページ1日で機械的に割り振って、かつ、見開きじゃなくて縦に360度めくるリング製本にするというのは早い段階から考えていたことだった。1日がページを跨がずにスパスパと切れていく感じがいいだろうと考えてのことだ。
さらに表紙を付けずに本文用紙だけを綴じることによって、めくっているうちにどこが始まりでどこが終わりなのかわからなくなるようなものにすることにした。そうすると強度が問題になるので、バインダー状に折った厚紙を本体とは別に添える(それが収納時の保護にも読む時の台紙にもなる)ということも考えたのだけど、結局蓋付きの外箱を発注することにした。どっちがいいか難しいところだけど、フラジャイルな本体をカチッとした箱にしまう感じが日記の気安さと私秘性の共存と響きあっていて気に入っている。
デザインは八木幣二郎さんにお願いした。こんな小さな企画を快く引き受けてくれたのも嬉しかったし、ここまで書いてきたような思いつきを具体的なモノとしてまとめるのは大変だったと思う。突飛なアイデアが紙の質感から組版まで統一感のあるデザインになっているのはひとえに彼のおかげだ。
感想・推薦コメントの募集
広告も書店への営業も帯文もなくそれは自主制作である以上そういうものなのですが、tfukuo.com流の販促として、日記読者の方の推薦コメントを募集しようと思います。私家版を手に取った感想でもいいし、まだ買っていない方の本サイトで日記を読んでいて思ったことでもいいです。以下のコメント欄にご記入ください。
掲示板と同じく、本名やSNSのアカウント名など、他の場所で使用している名前は使わずに、本サイト内だけで使う名前で記入してください。
この日記が静かに始まった瞬間。たしか、始めることと続けることと、それでも終わりがあることについての衝迫のようなものが滲んでいた。
365日、1年はあっという間だと人々はその終わりが近づくにつれ囁きあう。でも実際には、日付は幾つも連鎖することで伸びたり、記憶と共にまとまって消し飛んでしまったり、いつまでも【今日】に重なり続ける【あの日】があったりすると、この日記は教えてくれる。
時間は風のようで、吹き荒れることもあれば凪ぐときもあり、日記はその触れ幅の指紋を映しとる。痛覚・味覚・思考etc.。全身をかけて、その日は何にフォーカスし、自分のどこが研ぎ澄まされたかに向き合ったことを日記は刻んでいく。
自分と世界と日々の三者に同時にフォーカスし、焦点を合わせるという精巧な時計職人のような日記の軌跡が、私たちと日々や時との関係を静かに変えていく。
私が寝っ転がってこれを読んでいると、私が寝っ転がっている生活の延長に他の人の生活の屈託を感じる。
それは寝起きに足の指に小さな生き物の毛並みを感じるようなムードがある。たまに私の足の指をくすぐるが、噛みついたりはしない。そのうちどこかに行ってしまうのだろうが、しばらくは一緒にいよう。
書名が活版印刷された紙の箱を開けると、リング製本の一冊。
表紙を捲るとこの日記の最終日が現れる。終わるために始められた書き物。
継時的な営みが共時的な束として在る。
365日分の日常と言うには躊躇せざるを得ない複線的/重層的な思索の記録。
どの日でも良い、読んでみると最後の一文での加速感が凄い。ふっと身体を持って行かれる感覚。
リアルタイムで読んでいた読者のみならず、何かしら自分の時間との錯綜を読み取れるのではないだろうか。
私が道を歩くとき、彼は何処かでタバコをふかしている。
私が何かを見つけたとき、彼は何かを失っているかもしれない。
私が泣いているとき、彼もまた泣いているのだろうか。
見るべきものかもわからない他人の日記を覗く時、そこには確かに、自分以外の誰かが存在していることだけは分かる。きっと、それだけで充分なんじゃないかと思う。
Twitterという公共空間に日記がぽつんと置いてあった。躊躇なくそれを開いたら、ほんとうにただの日記だった。