お世話になっております。
このたび、日記を有料にするのをやめ、今後は無料公開することにいたしました。
いまさらながら日記にお金をいただくのもどうかなと思ってのことで、なにより僕自身無料のほうがずっと書きやすいことに気づいたからです。
これからこちらでおひとりずつ解約の手続きをさせていただきます。
あらためてこれまでご購読いただきありがとうございました。
日記は今後も続きますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
福尾匠
福尾匠の個人サイト
お世話になっております。
このたび、日記を有料にするのをやめ、今後は無料公開することにいたしました。
いまさらながら日記にお金をいただくのもどうかなと思ってのことで、なにより僕自身無料のほうがずっと書きやすいことに気づいたからです。
これからこちらでおひとりずつ解約の手続きをさせていただきます。
あらためてこれまでご購読いただきありがとうございました。
日記は今後も続きますので、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
福尾匠
早いもので『非美学——ジル・ドゥルーズの言葉と物』(河出書房新社)の刊行から1年が経ちました。正直、刊行前はかなり不安で、たんなる博論本の話題なんて2週間もまたずに消費されてしまうだろうという危機感もあって、同じ年に『眼がスクリーンになるとき』文庫版と『ひとごと』を出したり、なんとか存在感を維持させようとしてきました。それは、『非美学』についての、これはいま読まれるべき本だという自負心と、しかしこういう本がいますんなり受け入れられることは難しいだろうという醒めた認識とのギャップの表れでもあります。
振り返ってみればそのギャップのなかでもがいていくのはなかなかキツかったなと思います。それでもどうにかこうにかやってこれて、ひとつのご褒美としてじんぶん大賞をいただくことができたのも、読者の方々のおかげだと思います。
『非美学』はドゥルーズどうこうの話を抜きにして言えば、アウトプット過剰の社会のなかで、いかにしてインプットとアウトプットの関係を倫理的で創造的なものとするかということを考えた本です。もちろんそれは哲学や批評の実践性の話でもありますが、もっと広く、生きることや作ることの話として受け取ってもらえているように思います。
僕はこの1年で、本の感想をいただいたりフィロショピーを始めたりして、一般的に見て「現代思想」的なものがもっていたアウラが凋落し、社会学や芸術学等の周辺領域で熱心に取り入れられることが少なくなっても、まだまだリテラシーというものは作れるのだなと実感するようになりました。それこそ『非美学』は、一般的なリーダビリティとは違う、特殊なリテラシーを要求する本です。でもそれはたんなる専門性ではなく、感覚的な言い方しかできませんが、実際自分で読みながらその場で調達できるリテラシーなのだと思います(本というものには現地集合、現地解散に似た気楽さがあります)。というか哲学書はもともと、プラトンからウィトゲンシュタインまで、そしてドゥルーズやデリダは言わずもがな、そういうふうにして書かれていますし、そういうふうにして読まれてきました。問題はそういう現地調達的、局所的なリテラシーを、いましかできないかたちで再発明することです。
それで、この文章ではあらためて『非美学』がどういう本なのか、いまの僕の視点から考えてみようと思います。安っぽく聞こえるかもしれませんが、僕自身まだこの本を読んでいる途中で、まだまだここから引き出せるものはあると感じています。一方でこの点についてはほかの読者の方と同じ条件なのだと思いますし、他方で僕自身の今後の仕事が『非美学』のポテンシャルを証明することになると思います。
とはいえいまさら真正面から解説するのも面映ゆいところもあり、先日刊行された表象文化論学会の学会誌『表象19』に掲載された、森脇透青さんによる「非美学イデオロギー」という題の書評への応答を通して、あらためて『非美学』の狙いと構成について説明してみようと思います。
さて、森脇さんの書評は、ものすごく批判的な内容です。『非美学』は「読みづらい」本であり、本書の一貫性は理論的なものではなくぼやっとした「イメージ」に託されているにすぎない、それは欺瞞的な「非美学イデオロギー」なのだ、という主張です。
掲載誌を受け取って一読したときに最初に思ったのは、なぜ彼自身は構造的に読めているのにこれほど読みづらさ/読みやすさにこだわり、さらにその点について感情的な負荷をかけているのだろう、ということでした。彼の批判はきわめてつまらないものであり、彼のいう不備が本当に不備なのだとして、それをあらためなければならないのなら、僕はものを書くことの意味を根こそぎにされてしまったように感じるでしょう。繰り返しますが、彼自身は的確に『非美学』の大枠をまとめており、一般的な解説というレベルではじゅうぶん読めているのです。なぜその先で、自分が受け取ったものについて批判的に考えるのではなく、その先に存在しないものを相手に格闘しているのでしょうか。
そもそも、仮に『非美学』がものすごく読みやすかったらどうなっていたでしょうか。たんなる憶測ですが、たぶん森脇さんは読みやすすぎると言って同じように怒ったと思います。彼は三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるか』に対して将来残らない本だと言ったり、『史上最強の哲学入門』の飲茶さんに消えてほしいと言ったり、本の内容に関係ないことで悪口としか言いようのない発言をしていますが、ふたりがなぜ批判されているかというと、「軽薄」だからで、つまり、読みやすすぎるからです。
もちろんいたずらに読みにくいものはダメですし、読みやすければいいというのも短絡的です。それ以上でもそれ以下でもなく、個別の本のリーダビリティそのものを問題化しても生産的な話にはならないことは、彼自身どこかでわかっているはずです。つまり問題は、彼がなぜか知らないがリーダビリティの問題に取り憑かれており、局所的なリテラシーのありようを分析・評価しようとしていないということです。しかし書評に求められているのはまさにそういう仕事で、「切り捨て御免」的な乱暴さに頼ったところで評者自身にとっても、言論の世界にとっても、何ひとついいことはないのではないでしょうか。彼はXで僕について「書き手を名乗るべきではない」とまで言っていますが、自分の言葉の力を自分で毀損しているようにしか見えません。
彼は『非美学』の「読みづらさ」を自身で具体的に検証しているわけでもなく、過去に書かれた書評4篇(丹生谷貴志、福嶋亮大、小倉拓也、浅野雄大による)の、本書の難しさについて触れた箇所を証拠として振りかざしています。しかしそれぞれ読んでもらえればわかるのですが、この4篇はどれも全体としては肯定的な内容で、しかし、通り一遍の人文書と思うとケガをするよ、決して読みやすいわけではないよという、あくまで書評の読者へのコーションとして読みづらさを指摘する意図が大きいように見えます。
加えて、僕はこの点がいちばんびっくりしたのですが、彼の書評は、『非美学』を「良心的」に読むことを、あたかもそれが劣ったことであるかのような態度で棄却しています。良心的に読まないと得られないようなものには意味がないということでしょうか。しかしどんな本であれ良心的に読まなければ得られるものなどないのではないでしょうか。しかし本当の問題は、実際彼はけっこう良心的に読んでいる(だからこそ的確に要約できる)ということで、むしろその内実から自分なりの考えを引き出せなかったことが、感情的な拒絶として表れているのではないかと思います。そしてこのことが、内容面での批判の中心にある、『非美学』における「文学の不在」という問題にかかわってきます。
つまり彼は、自身の「良心的な」読みに意味を与えようとして、そこに存在しないものの話をすることしかできなかったわけです。僕の考えではそれは能力の問題というより心理的なロックの問題で、どういうことかと言うと、おそらく彼は、『非美学』という本の全体をあますことなく串刺しにできるようなクリティカルな何かを見つけなければならないという義務感に囚われてしまっているのではないかと思います。しかしまさに僕の本はそういうことはやっても詮ないと書いているはずで、つまり、〈すべて〉を言おうとするとどうしたって「超然と内在を言う」だけになってしまうので、むしろ重要なのは〈いくつか〉を自分なりに拾って繋げることです(皮肉なことに森脇さんが唯一肯定的に評価しているのはこの「超然と内在を言う」ことへの批判でした)。
僕が面白いと思うのは、一見求道的な〈すべて〉や〈まんべんなさ〉は実は甘えた形式で、〈いくつか〉への偏りにおいてこそ自分の仕事が試されるのだということで、この逆転は『非美学』のひとつのハイライトだと思います。たとえば彼は東浩紀に代表される「否定神学批判」の系譜についての僕の議論を取りあげて、自分には違う考えがあるとほのめかしていますが、良心的な読みを斥けてまで存在しないものについて紙幅を割くくらいならこのトピックについてしっかり書いてくれればよかったのにと思います。
そして『非美学』は「言語芸術」としての文学をオミットしている、その排除によって言語=哲学と物=芸術の二元論が維持されているのだ、それはまさに否定神学的だからダメなのだ、という批判は単純にミスリードだなと思います。
それは第一に、『非美学』はジャンル問わず具体的な芸術作品について一切論じていないからです。本書で芸術作品として論じられているものがあるとすれば、それはアズマヤドリが木の枝で作るドームや、熱帯魚の鮮やかな体表といった事例だけです。そしてこれは、森脇さんが挙げる『非美学』における諸々の二元論にはなぜか数え入れられていない、しかし僕自身はいちばん重要だと思う、〈人間と動物〉の二元論に関わっています。
第二にそもそも、「このシステムはXの排除によって成り立っている」という批判の型自体が否定神学的なのではないでしょうか。『非美学』にはニーチェもラカンも出てきません。ドゥルーズの芸術論を扱っているのに彼が『襞』で重視した音楽や建築の話も出てきません。不在はたくさんあり、穴ぼこだらけです。それは僕がドゥルーズから〈いくつか〉を引き出すことで、本来ドゥルーズの言葉などではない「非美学」という語にドゥルーズという署名を偽造すること、その偽造によって福尾匠という固有名が意味を獲得すること、それが哲学の仕事であり、哲学史とはそのような運動の連続なのだと考えているからです。
おそらく、良心的なまとめを離れたとたんに訪れる彼の混乱は、『非美学』において哲学と芸術の関係は観点であってテーマではないということを見逃していることに起因するのではないかと思います。本書のテーマは序論の冒頭で示している通り、あくまで哲学の実践性と他者の関係です。哲学するとは何をすることであり、その行為を触発する他者との関係はどのようなものであるのか。そしてこのテーマを追跡するにあたって、ドゥルーズのキャリアのなかで哲学と芸術の関係がどのように変化したかという観点が採用されている。ここで観点とは海洋学者が鯨に着けるGPSタグのようなもので、あくまでそれを通して浮かび上がってくる運動や変化のほうにこそ意味があります。
そしてその運動が、『非美学』の第6章でまとめているように、〈能力論→言語論→他者論〉という移行として整理されます。図式化すると次のような構造です。
| 哲学 | 芸術 | |
|---|---|---|
| 1)能力論 | 思考 | 感性 |
| 2)言語論 | 言語 | 物体 |
| 3)他者論 | 人間 | 動物 |
そしてこの三つのステップがきわめてざっくりと言って『非美学』の第1−2章、第3−4章、第5−6章に対応します(あくまでこれは大局的な推移で、実際は細かく行ったり来たりしている)。これを単線的なストーリーに圧縮すると次のようになる。
1)ドゥルーズは『差異と反復』で思考の発生=哲学の開始という問題に取り組み、感性的な芸術作品に触発されて哲学的な思考が立ち上がることをひとつの範例としていた。しかし一方で異質なものとして前提された諸能力が他方で、連携を約束されているという矛盾がそこには残っている。
2)その後のドゥルーズの『シネマ』は、思考を哲学に閉じ込める態度から抜け出している。むしろイメージによる思考の実践として映画に向き合い、映画が実現している思考を「映画の概念」として掴み出すことが目指されている。つまり、思考と感性という主体に内属する能力ではなく、イメージと概念という、いずれも外在的な対象の異種性に重心が移行している。この変化と、ドゥルーズが哲学の定義とした「概念の創造」が言語行為論の語彙で語られていることは軌を一にするだろう。そしてこれは『千のプラトー』においてドゥルーズが、言葉と物という外在的かつ異種的なものの二元性(そのすれ違い)によって人間の社会を定義し、同種の個体の再生産によって形成される生物学的・動物的な環境と区別したことの実践的な帰結であるとも考えられる。
3)『哲学とは何か』で彼は、芸術は人間を待たずに始まる、つまり、芸術は動物的な表現であると述べるが、このとき芸術作品から触発されて書く批評とは何なのか。そこには〈死にゆく動物に直面して書く〉というきわめてデリダ的な問題に対する、まったくデリダ的ではない解答がある。『非美学』ではそれを「非−喪」と呼んだ。
ドゥルーズはなぜ動物の断末魔が物書きの頭にこびりついて離れないのかと問い(たとえばカフカの鼠の叫び、あるいは鞭打たれる馬車馬とニーチェの錯乱)、それは生の有限性に感じ入る「憐れみ」によるのではなく、むしろ臨終にあってすら生成を求める生への直面なのだと考えた。動物が死という隠喩=形象への釘付けから逃れ生成するほどに、物書きは動物に生成する。しかし厄介なのは、一方で〈動物への生成変化〉を超然と称揚して済ませてしまうことであり、他方で書くことが叫ぶことになってしまえば他者性が潰れてしまうということだ。ここから『非美学』の〈眼を逸らさなければ書けない〉というテーゼが出てくる。
非−喪とは他者に直面して、書くということを、憐れみによる同一化(あるいはその不可能性)という内面的な価値に回収することなく、見られたものから書かれたものへという外在的な形式のリレーとして肯定する創造の最小の条件だ。それは自身が他者から受け取ったものを、相互的・人格的なコミュニケーションに回収してもそれを保存することはできないという倫理的な条件でもある。
さて、こうしてみると、『非美学』にクリティカルな不在があるとしたらそれは、〈文学の不在〉ではなく〈哲学は文学であるという宣言の不在〉なのではないかと思います。哲学することを特殊な言語行為として、そして〈書くこと〉として考える以上、哲学=文学という定義はある意味で必然的に要請されるものでもあります。
しかしそれこそ、哲学は文学だと「超然と」言い張ってもしょうがないわけで、『非美学』はその宣言を避けて実地にやってみせることに留まるストイシズムに貫かれているとも言えます(そこまで気張る必要があるのかと言われれば、いちどはそれでやりきるしかなかったのだと思います)。したがって宣言の不在はまさに森脇さんが言うところの、その排除によってシステムが成立している否定神学的なものなのかもしれません。こういう批判であればたしかにそうかもなと思います。
とはいえ他方で、この観点に立てば、彼が書評のなかで無視している、エクリチュール−有限性−動物というきわめてデリダ的な問題系が浮かび上がってくるわけで、不在のものについて語らずとも、東浩紀論を書きデリダ研究をしている彼にしか書けないことはあったはずです。つまり、否定神学批判、そして人間と動物の関係というふたつのスキップされているトピックにおいてこそ森脇透青という書き手がどのようなリテラシーを開発し、何を考えている人間なのかということが表れるのではないでしょうか。なぜそれをやらずに語調ばかり強めているのか、職務怠慢ではないかと思います。
日記や『ひとごと』に収録されたエッセイも含め、僕が広く自分の活動を文芸実践として展開しようとしていることは彼も知っているはずです(『日記〈私家版〉』を出したときにポッドキャストのゲストに呼んでくれましたし)。それを加味するのはあまりに「良心的」だということなのでしょう。それはそれでわかります。でも「一般読者」を代弁することを自身の書き手としての固有性より優先させることが正しいことだとは思いません。
書評への応答はここまでにしようと思います。書いていたら思いのほか楽しくて長くなってしまいました。『非美学』をまだ読んでいない方には伝わりにくいところもあったかもしれませんが、まあまあリーダブルに書けた気もするので(この点については自信を喪失しかけていますが)、本を読みながらのガイドにしてもらえればと思います。
書くのも読むのも結局は現地調達です。もちろん一般的に通用する形式や技能もある程度のところまでは機能しますが、それによってその場にあるものや自分がやりたいことを見失ってしまっては意味がありません。
『非美学』はこのような意味で、窮乏にもとづくプラグマティズムの本でもあったのだと思います。その場しのぎでスリッパをドアストッパーにするような一般的な用法からの逸脱は、「豊かさ」からは生まれません。だとすると問題は、ここでの「貧しさ」とデリダ的な「有限性」の差異でしょう。おそらく貧しさはいまここにある現実性に関わり有限性はいつかどこかにある可能性に関わるという、様相の違いがクライテリアになるのだと思います。そしてそれは外在的なものの操作と内面的な納得の違いでもある。ドアストッパーがないからドアが閉まってしまうなあと納得していても現実は動きません。
そしてここに『非美学』が、脳と身体という現代思想において典型的な、ふたつの内面化の形式に抗っていることの意味があるのだと思います。脳もそうであるようなネットワークなるもの、豊かな、あるいは有限な身体性なるものは、しばしば現代的な理論にとっての基底的なイメージとして採用されます。でもそれが、その外に出ていかずに済ませるための口実として機能しているとしたら、言葉や物として、そこらへんに転がっているものとの出会いを本当には肯定することができなくなってしまうのではないか。
だとすると、豊かさとも有限性とも違うものとして、貧しさのポジティブなありようを示すべきではないか。これは『非美学』に書かれていることではありません。でもこのように書けばそのように読むこともできます。それが〈いくつか〉のなかで、貧しさのなかで読むということ、書くということなのだと思います。
いままで「アウトレットル」という名前でやっていた月額400円のサブスクを、値段はそのままで名前を「日記」に変えて、毎日更新にすることにします(アウトレットとフランス語で文字・手紙を意味するレットルを掛けていたのだが、ほとんど誰にも伝わっていない気がする。そもそも名前がよくなかった)。
もともと月約4本のエッセイを載せるということでサブスクを始めたのですが、軽いものでいいとわかっていても「原稿」だと思うと自分で勝手にハードルを上げて、負担に感じて先延ばしにしてしまっていました。去年まで3年間続けていた経験からも、毎日更新のほうがかえって書きやすいし、僕自身の生活のありかたにとっても、読者の方々の日々のひとつの読点になるという意味でも、毎日更新のほうがいいのではないかと思います。
なんというか、日記を書いていたときのほうが、感想や「いいね」のような明示的な反応がなくても、読者のひとといい感じで握手できていた、というか、その沈黙や距離がいい感じなものとして感じられていた、という感じがあり、日記をやめて『非美学』や『ひとごと』を出してから、沈黙が怖くなってしまっていたなと思います。でも基本的にはどこまでいっても読者は「サイレントマジョリティ」なのであって、沈黙がキツく感じられる状態は健康的ではないなと。
さきほどさっそく今日の日記を書いたので、ぜひ講読をよろしくお願いします。
2024年6月1日の日記をもって、3年間書き続けた日記の更新を終了します。書き続けたといっても、丸1年が終わるたびに2ヶ月ほどの休止を挟んでいて、正確には、2021年1月20日から2022年1月19日まで、2022年4月7日から2023年4月6日まで、そして2023年6月2日から2024年6月1日までの3年ぶんの日記を書いてきました。
まあ、数十年単位で日記を書いているひともたくさんいるので、それ自体がどうということもないのですが、僕としては1年目の途中に決めた3年間書くということをつつがなく終えられてほっとしています。最後までどういうひとにどういうふうに読まれているのかははっきりしませんでしたが、ともかく、更新通知ツイートへの反応や、サイトのトラフィックとしてぼやっと現れる読者なくしては続けてこられなかったことはたしかです。たぶん、それぞれの勝手なそのときどきの疎密があって、こちらが続けているからこそそういうものとして関われるわけで、それが日記を公開することのよさのひとつなのだと思います。
これから日記をどうするのか、また本にするのか、するとして自分で作るのかどこかから出すのか、ということはまだなにも決まっていません。いずれにせよここにすべての日記があることは変わらないので、ひまなときに「ランダムに日記に飛ぶ」リンクをぽちぽち押したりしてみてください。
しばらく休みますが、このサイトは継続的になにか書く場としてまた別のかたちで使っていこうと思います。長いあいだお付き合いいただきどうもありがとうございました。
以下はとある書類に書いた文章で、ここ2日の日記を使って推敲したものです。考えてみれば自分のやっていること全般についてあらためて説明する機会もなかなかなく、書いてみて自分自身そうだったのかと気付いた点もあり、せっかくなので以下に公開します。
***
私は現代フランスの哲学を専門としており、とりわけジル・ドゥルーズの哲学を、彼の哲学実践と芸術との関係という観点から研究してきました。ドゥルーズは「リゾーム」や「ノマド」、あるいは「器官なき身体」といった概念を提唱したことで知られる哲学者ですが、これらはどれもカフカやアルトー、画家のフランシス・ベーコンといった作家たちについての批評のなかで生み出されました。つまり、彼が自身の哲学を彫琢するにあたって、芸術はきわめて重要な役割を果たしており、ここまで芸術の存在が哲学の構築に強く影響している哲学者を私は他に知りません。
芸術を扱う哲学は「美学」と呼ばれていますが、ここで私はドゥルーズの「批評」と美学一般を区別してみたいと思います。というのも、美学が「芸術とは何か」、「美とは何か」といったすでに与えられた問いに応答するために哲学的理論を駆使し、その事例としてあれこれの芸術作品を包摂するのに対して、ドゥルーズ的な批評は、それぞれに特異な作品が応答している固有の問題を探すためにこそ、芸術作品や芸術家に向き合うからです。美学においては哲学者はあらかじめ抱いている問いに適合する作品を探すことが求められ、批評においては作品との出会いによって初めて惹起される問いを捕まえることが求められます。
私のドゥルーズ研究に独自性があるとすれば、ドゥルーズが芸術一般について、あるいは特定の作家なり作品なりについて「何を」言っているかという観点ではなく、彼の芸術論が「どのように」作られ、それが狭い意味での彼の哲学とどのような関係を形作っているかという観点から研究している点だと思います。
ドゥルーズにとって芸術が哲学を適用したり応用したりする対象ではなく、むしろ哲学をそのつど作り替えることを強いるような、それ自体 “critical” な存在であるとすれば、問われるべきはそのような他律的な哲学とは何なのか、哲学史のなかでそれがどのような意味で際立ったものであるのかということです。哲学者があれこれの作品から「影響を受ける」というのはよく聞く言い回しですが、その実相を哲学のなかで明確にするということは案外なされて来ませんでした。
こうした問題意識のなかで、私は早い段階から、狭義の哲学研究に収まらない、批評というフィールドでも活動してきました。私はそれを研究の「アウトリーチ」とは呼びたくありません。なぜならアウトリーチには、啓蒙という口実のもとでの専門家と非専門家の分断とともに、応用という口実のもとでの非哲学的領域の哲学への包摂が含意されているように思われるからです。もちろん哲学には専門性があり、それを用いて他領域のことを説明することが必要な場合もあるでしょうが、私が批判的に見ているのは、専門性・必要性が哲学とその外との関係のありかたを考えないで済ませるための理由にすり替わってしまうことで、「権威」とはそのすり替えのことなのだと思います。
美学への批判、哲学的理論の適用への批判、実践的・制度的なレベルでの哲学の自閉性への批判、これらは私の活動において、学術的な論文から文芸誌等での批評やエッセイまでを含めて一貫しています。そしてそれは「哲学の他者関係」を考えるためのものであると同時に、「他者関係一般」を考える実践でもあります。
柄谷行人の『探求』以降、他者論は日本の批評の中心的なテーマのひとつとなっています。それはもちろんレヴィナスに由来するフランス哲学における他者論の流行を受けてのことでもあるのですが、柄谷、そして彼を批判的に引き継ぐ東浩紀においてより顕著なように、彼らはたんに抽象的に他者を論じるだけでなく、出版や組織の立ち上げを通して、社会的・政治的なレベルでの「公共性」として他者関係を実験する活動を繰り広げています。たとえば東は『観光客の哲学』において、一見軽薄な観光というトピックから出発して、とりわけ現代思想においていきおい絶対化・神秘化されてしまうきらいのある他者論を批判しつつ、軽薄であることが可能にする開かれを論じました。そしてそれは、彼が自身の会社ゲンロンで企画しているチェルノブイリ原発ツアーなどの活動と不可分であり、それはおよそ学術的研究のアウトリーチとはかけ離れているものです。
研究の話に折り返すと、私がドゥルーズの哲学を芸術との関係という観点から考察しているのは、そもそもこうした、日本において「批評」と呼ばれている動向を受けてのことです。あらためてそのプロジェクトを要約すると、哲学と芸術の異質性を前提としつつ(つまり、両者のあいだに予定調和や共通の土台を想定せず)、いかにして哲学は芸術との出会いをおのれの変化の契機とするのか(これは具体的には新たな哲学的概念の創造に相当します)ということです。これをさらに一般的な問いとしてパラフレーズすると、自律的であるということを閉鎖的であるということにせず、他者に開かれているということを包摂の口実にしないということになります。
これは私のあらゆるジャンルの文章に一貫しているスタンスであり、かえって具体的にどこがどうだと示すのが難しいのですが、ここではそのうちでももっとも非学術的で、もっとも非社会的にも見える「日記」という形式で書きながら考えてきたこと、実践してきたことを通して説明してみようと思います。
私は自分のウェブサイトで毎日日記を書いていて、2022年には1年分の日記をまとめた『日記〈私家版〉』を自主制作して刊行しました。これはおよそ学術的な「業績」にはカウントされないような活動ですが、定量的なものについては「業績一覧」から判断していただくとして、ここではその外にあるものについて書いておきます。
さて、われわれにとっては日記とは、まず、小学校で書かされるものだと思います。国語教育における日記の導入は、明治期に近代的な小学校の教育制度が構築されたときにすでになされていました。これは当時の言文一致的な言語政策とひとつながりになっており、さらにそれは、文学における写実主義的なイデオロギーとも踵を接しています。つまり、日記は制度と表現の交差点にあるのであり、私はこの近代以降の日記のありかたについて、『土佐日記』や『蜻蛉日記』のような古典的な日記文学からさしあたり切り離して理解する必要があると考えています。日記は一方で教師が生徒の学校の外での素行を監視する装置であり、他方で正岡子規が雑誌『ホトトギス』に読者から募集した日記を掲載していたように、新たな文学的表現の実験の場になりました。
毎日、その日の日付がタイトルになった日記をウェブで公開すること。こうしたことを続けるなかでだんだん明確になってきたことのひとつは、「書くべきのことの少なさ」こそが、新しい表現、新しい思考を呼び込むということです。
どういうことでしょうか。SNSにおけるハッシュタグ政治に顕著なように、われわれが生きる世界には「言うべきこと」が溢れており、そのフォーマットも無料で即座に手に入ります。しかしこのことは、一方でマイノリティの権利擁護などに寄与すると同時に、トランプ現象のようなナショナリスティックな反動も呼び起こし、両者の分断を強めているように思われます。これほど人々が「言うべきこと」に駆り立てられ、それによってそれぞれの態度が強固になるという循環に巻き込まれる時代はいままでなかったのではないでしょうか。
それに対して、日記を書くということは、毎日締め切りが来る原稿を抱えているようなものであり、恒常的な「ネタ切れ」の状況にあると言えます。私はこれを「イベントレスネス」という概念で呼んでいるのですが、この効用のひとつは、言うべきことの外で他者と出会う可能性を開くことにあります。それは書かれる内容においてもそうであり、また、サイト内に作成した「日記掲示板」に1200件以上の日記が集まっているように、日記には非コミュニカティブな公共性を開く力があるという意味でもそうなのです。
ドゥルーズはすでに晩年に、自分は「もはや言うべきことが何もないという幸福」に向けて書いているのだと言っていました。その意味で日記は私なりのドゥルーズ的な実践のひとつの事例です。しかし日記も批評も、間違いなく私にとって理論的な更新の場でもあり、結局のところ何が理論で何がその応用なのかと問う意味が消失するような地点に向けて私は活動しているのだと思います。そして言うまでもなく、これはきわめて政治的な活動であるとも思います。なぜならそれは、もっとも広い意味で「言葉の力」を捉えなおす実践だからです。
*ブックファースト新宿店で7月から8月末まで開催された選書フェア「日記も哲学も同じ散文」の冊子に寄せたコメントの再録です。本企画のきっかけとなった『日記〈私家版〉』の紙版は完売しましたがPDF版は販売中なのでぜひチェックしてみてください。
僕は普段おもに哲学の論文や批評の文章を書いているのだが、去年ふと自分のウェブサイトを作って、そこに日記を毎日投稿し始めた。丸一年書いたその日記をまとめて、今年5月に『日記〈私家版〉』として自主制作し、365部限定で販売を開始した。この選書企画もその刊行記念として開催していただくはこびとなっていたのだが、予想外の売れ行きで企画が始まる前に在庫がなくなってしまい、「完売記念」の企画となってしまった。本の完売が祝われるところは僕も見たことがないのでこれはこれでいいのかもしれない。
ともかく、このたびは「日記も哲学も同じ散文」というテーマのもと、30冊ほどの本を選び出し、それぞれに紹介のコメントを付した。9個の小テーマを設け、そのなかに3冊ほどをなるべくジャンルを跨いで並べている。哲学、言語学・言語論、文学作品が多くを占めおり、およそまとまりのないラインナップとなってはいるが、このまとまりのなさは現代の散文を取り巻く高度に複合的な力場の実際でもあると思う。この選書があらためておのおので「書くこと」のポテンシャルについて考えるきっかけになれば嬉しい。
福尾匠『眼がスクリーンになるとき:ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』フィルムアート社
いきなり拙著で恐縮なのだが、同じ人間のやることなので、ドゥルーズ『シネマ』を通して考えたことと日記のあいだには繋がりがある。『眼がスクリーンになるとき』の第5章では、思考と時間の関係についてのドゥルーズの議論に取り組んだ。彼は、ものを考えるというのは、今日の次に明日が来るという単線的な時間から抜け出して、歴史が形作る地層から新たな断面を切り出すことなのだと述べた。場所によっては地層の重なりが各地層の形成された年代順とは異なっているように、そこでは非時系列的な時間が編み上げられる。ところで、日記を書いているときのいちばんのワンダーは、「今日」のことを書いているはずなのにいつのまにか違う時間に迷い込んでいるときである。
柴崎友香『ビリジアン』河出文庫
この小説にはそうしたワンダーが溢れている。ある少女の10歳から19歳までの日常が連作の短編で切り出され、そのなかで彼女はしばしば「いつか」の自分に出くわす。思い出すという行為がそのまま外界に投げ出されてあるようなこの小説の世界は、私「が」過去「を」思い出すというときの助詞に宿っている方向性を撹乱する。その意味で彼女は鏡の国に迷い込むアリスに比せられるだろう。過去が私を思い出す。私を過去に思い出す。思い出すが過去を私に。
貞久秀紀『雲の行方』思潮社
本書は詩人である貞久による、ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(後出)を想起させる断章形式で書かれた言語論だ。「ながめているうちにこの枝のゆれが何かそれとはべつのふしぎに静かなものを暗示しているように感じられながらも、そのふしぎに静かなものは何かと問われれば、それは目の前にあってすでに明示されている当の枝のゆれにほかならない」。彼はこの奇妙な回転扉のような詩的記述の論理を「明示法」と名づけている。もっとわかりやすそうな例を考えてみよう。道端で見かけた花の名前がわからず、連れに「この水仙は何ていう花だったっけ」と問うて、呆れた顔で「何って水仙でしょ」と言われて、初めて自分がすでに「水仙」と口にしていたことに思い当たる。ぜんぜんわかりやすくならなかった気もするが、とりあえずこれで何か引っかかった人はぜひ読んでほしい。少なくとも僕はそれが水仙であると同時に何の花かわからないみたいな状態は、けっこうリアルなものとしてあるように思うし、ただそこに明示されてあることを記述する面白さはそこにあると思う。
田中裕介(編)『無数のひとりが紡ぐ歴史:日記文化から近現代日本を照射する』文学通信
多くの日本人にとって、初めて日記を書くのは小学校の宿題としてだろう。これは明治に近代的な国語教育が始まったときから埋め込まれている制度であり、その意味で日記は表現行為と制度の交差点にある。さらにそれは文学と政治の領域をまたいでなされた言文一致運動と同時代であり、「小国民」の涵養としての教育が富国強兵的なイデオロギーと骨絡みとなった時代でもある。学校に提出する日記は、それを通して教師が家庭での行いを監視する装置ともなり、フーコーのいう「規律訓練型」権力の私的領域への侵入経路でもあった。しかしそれはたんに、言語表現が権力に攻囲されて身動きが取れなくなったという話ではない。たとえば僕は夏休みの最後の日にまとめて1ヶ月分の日記をでっち上げるような怠惰な子供だったが、それはミニマルな抵抗行為=表現でもあるだろう。その両義性をポジティブに捉える回路が日記にはある。
フーコー『言説の領界』河出文庫
本書はフーコーの講演録で、本文自体はとてもコンパクトなものだ。しかし訳者の慎改康之による膨大な訳注と解説(さらにその注)によって、ほとんどこの1冊で「フーコー入門」としての役目を果たしうるものとなっている。講演のテーマは〈言葉を生産や流通といった経済学的な枠組みで扱うための方法論〉だと言えるだろう。言葉が裸で放り出されることはなく、流通する言葉は物質的、文化的、政治的等々の衣装をまとい、われわれが言葉の「意味」や作者の「意図」と言葉の直接的な関係を言おうとするとき、そうした衣装は括弧に入れられる。それに対してフーコーは、言葉からその内面的な核に向かうのではなく、言葉が分散的に、つまり言葉どうしが互いに外在的に繁茂し組織されるその広がりの外在的な形式に目を向けなければならないと述べる。散文はまさに「散−文」であるわけだ。それは内面的な自由とその外在的な抑圧という図式では捕まえられないところにある。よりとっつきやすいものとして慎改康之『フーコーの言説』(筑摩選書)もオススメ。
トーマス・S・マラニー『チャイニーズ・タイプライター:漢字と技術の近代史』中央公論社
僕はいまアルファベット入力のキーボードでこの文章を書いていて、「東京」と打つためにはtoukyouと打って変換する必要があり、しかもこれは「Tokyo」というローマ字表記と食い違っている。考えてみればこれはとても変なことだ。パソコンのキーボードは19世紀に発明されたタイプライターに由来するが、「書く機械」としてのタイプライターからワープロ、パソコンへという流れが単線的に見えるのはあくまでアルファベット圏にとっての話だ。マラニーはこれをキーボードの左上に並ぶ文字列から「QWERTY的なるもの」と呼び、本書はQWERTY的なものとの絶えざる衝突として中国語タイプライターの歴史を描く。たとえばわれわれのスマホのフリック入力がQWERTY帝国主義への抵抗であるとして、われわれはその政治性をどれくらい意識し、日本語のありかたを考える通路としているか。マラニーが技術言語学的(techno-linguistic)と呼ぶ領野の探求は、散文のフーコー的な分散を考えるうえで欠かせないだろう。フーコーは仏語タイプライターのキーボードに並ぶAZERT(英語のQWERTに対応する位置にある)は言表ではないが、それがタイプライターのマニュアルに印字されたものは言表であると言っていた。ふたつのAZERTのあいだでいったい何が起こっているのか。
グレッチェン・マカロック『インターネットは言葉をどう変えたか:デジタル時代の〈言語〉地図』フィルムアート社
「ツイッター構文」とか「なんJ構文」とか「LINEおじさん構文」とか、インターネット上のプラットフォームは何か特定の口調を呼び寄せるようだ。それはおよそ言語学に閉じ込めることができないような、きわめて雑多な領野を横断して作られているように見える。たとえば「草」が笑いを意味するまでには、まず日本語対応していないオンラインゲーム上のチャットで「(笑)」が「(warai)」と表記され(ここにもQWERTY的なものが顔を出している)、それが短縮され「w」になり、これが動画プラットフォームのコメントや掲示板サービス上で「wwwwww」と連打されるようになり、その様子が草に見えるので笑うことを「草を生やす」と言うようになり、それがまた短縮されて「草」と言われるようになった。このプロセスに見られるような複合的な力場にわれわれの言葉が深く投げ込まれているとして、それに対して超然と「文法」や「美文」に引きこもるのではなく、そのただなかで言葉を連ねることにポジティブな意味を見出すことはできるだろうか。
ミハイル・バフチン『マルクス主義と言語哲学』未来社
バフチンと言えばドストエフスキーの小説を「ポリフォニー」的な語りとして読んだ人だというのがいちばん一般的な理解だと思う。「ポリ」とは「複数の」という意味だが、『マルクス主義と言語哲学』では文字通り、複数の人々のあいだで言葉がどのように流通し機能するかということがより言語学的な観点から論じられる。ひとことで言えば、バフチンは〈群れのなかの言葉〉のありかたを〈群れとしての言葉〉のありかたから分析する視座を開拓したのだ(のちに「社会言語学」と呼ばれることになるものの走りだと言えるだろう)。言葉を心理や論理や文法のもとに回収するのではなく、むしろそれらを火花のように生み出す雑然とした相互作用の場として言葉の群れを捉えること。「言葉が内的人格の表現であるのではなく、内的人格とは表現され内部に追い込まれた言葉である」。各人にそのつど人格=人称を割り当てる言葉の流通形態としての直接話法・間接話法の分析は、ドゥルーズの「自由間接話法」論の重要なインスピレーションともなっている。
ジョン・R・テイラー『メンタル・コーパス:母語話者の頭の中には何があるのか』くろしお出版
言語学はチョムスキー以来、言語を辞書+文法書モデルで考えてきた。一方に語彙のコレクションが、他方にその配列の規則があり、ふたつの知識を組み合わせることで文が生成されるというモデルだ。しかしとりわけ、膨大なコーパスを収集し統計的に処理する情報技術が発展してから、このような見方では説明できないことがあまりに多いということがわかってきた。たとえば英語では”total success”(完全な成功)という組み合わせより”total failure”(完全な失敗)という組み合わせの用例が圧倒的に多い。このような文法的には等価だが統計的に明らかな不均衡がある場合、チョムスキー的な枠組みではそれを理論の外に追いやることしかできない。それは「言語そのもの」に関わることではなく、その偶発的な運用に関することなのだと。しかし「言語そのもの」なんて世界のどこを探しても見つからないだろう。そういう相対性理論以前の「エーテル」みたいな仮想の抽象的な存在をあてにするのではなく、実際の言語使用のなかから浮かび上がる統計的な規則の側から見ることで初めて、〈群れとしての言葉〉の分散の形式を捉えることができるのではないか。
サミュエル・ベケット『モロイ』河出書房新社
ページを開いたときの文字の量感で読書の質は大きく変わるものだと思う。僕のなかでそのマッシブさの極北に位置するのがこの小説で、僕がこうして読んだり書いたりを仕事にする前、自分で何か書けるとも思っていなかった頃の、ただただ読書そのものに没頭していたような時期にのめり込んだ本でもある。僕が読んだのは絶版になっているらしい白水社の安堂信也訳で、いまはもう手元にはないのだけど、その内容よりもまずページを埋める文字の群れの質感が思い出される。モロイが経験する思考のあてどない錯乱と行動のあてどない彷徨(そのふたつももはや区別できなくなる)は、あたかも彼がこの本の文字を真似ているかのようだ。段落分けさえほとんどなされていない。段落が節を呼び節が章を呼び章が本を呼ぶ、そうした建築術的な文章観から散文が溢れ出したかのように。
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』講談社
ウィトゲンシュタインは本書を「アルバム」みたいな本だと言う。たしかにこの本は、いかにも哲学書っぽいグランドデザインを作ってからその各項目を埋めていくような書き方ではなく、広い庭に石を置いてはそれを近づいたり離れたりしながら眺めて次にどこに石を置くか考えるような、いつ終わるともしれず同時にいつ終わってもいいような書き方がなされているように思う。言語とはどういうものかという問題から哲学とはどういう言語である(べき)かという問題へと徐々に重心が——ミクロに行きつ戻りつ——スライドしていく。しかしこうした整理も反省的なものであって、読んでいるときのどこにいてどこに向かっているのかわからない生々しさのほうがこの文章のリアルだと思う。それはこの文章の主題である思考そのもののリアリティでもあって、思考、意味、理解に想定されてきた瞬間性が溶かされて間伸びした時間に置きなおされていく。アルバム的な構造はその主題に形式面で対応している。
千葉雅也『ツイッター哲学:別のしかたで』河出文庫
「なぜツイッターの140字以内がこんなに書きやすいかというと、それは、書き始めた途端にもう締め切りだからである」。ツイッターがメタとベタをスイッチしながら言った言われたといがみ合うゲームに覆われてしまってからあらためて本書を読むと、胸がすくような思いがする。「散文の分散」セクションに書いたような制度的な拘束と戯れる実践だと言えるだろう。日記は毎日が締め切りであり、そこには思い出して書くという時間的なタメがあるとするなら、本書にはほとんど思いついたそばから忘れてしまうようなあっけない思考のきらめきが確かに留められている。いちばん好きなのは次のツイート。「二兎を追ううちに、自分が三番目の兎になって走っていること。そういうのがいい。[2013-02-15 23:55]」
青木淳吾『このあいだ東京でね』新潮社
日記やエッセイを書いていていちばん手っ取り早くそれっぽい文章にしたければ、料理の描写か都内の移動の描写をすればいいと思う。行為をそのまま書くと自動的にいろんな名詞が出てきて、しかもそれぞれが喚起的な響きを持っているからだ。東京はあらゆる地方の日本人の頭のなかに地名のコレクションとして埋め込まれていて、僕のような地方出身者にとってはそれこそが「東京」であり、たとえ地名がランダムに繰り出されても何かの風情を感じてしまうだろう。もちろん青木のこの小説がそうした手っ取り早さに逃げているわけではないが、この小説に漂う〈どこかで聞いたことがあるが、しかしそのリアリティが奇妙に剥離している感じ〉は、やはりきわめて東京的なものでもあると思う。
荒川洋平『日本語という外国語』講談社現代新書
いつかどこかで読んだ、「国語学会」が「日本語学会」に改称されたのは2004年であるという話が妙に頭に引っかかっている。ド真ん中の専門家が集まるアカデミックな場ですら、20世紀が終わるまで国語を日本語として対象化することができなかったのだ。それまで外国人研究者はこの学会に参加するときどういう気持ちだったのだろうか。われわれは日本語が上手な外国人を見ると、日本語は難しいでしょうとつい言いたくなってしまう。漢字仮名交じりで、人称が曖昧で、語尾のニュアンスが複雑で……と。もちろんそういう難しさは実際にあるだろうが、本書を読んで驚くのは、日本語教育の現場ではきわめて実際的かつ効率的にその複雑さが割り切られていることだ。本書を読んでいると自分が普段どれだけせせこましい「含み」に寄りかかって言葉を使っているかということに気づかされる。
芹澤健介『コンビニ外国人』新潮新書
戦前・戦中の日本はアジアや南洋の地で日本語を「帝国」の共通語として教育していたが、現代の外国での日本語教育は経済的な理由でなされている。いわゆる「出稼ぎ」の外国人のための日本語学校は国内だけでなく国外にも数多く存在し、その一部には悪質な斡旋業者と組んで過酷な職場に技能実習生として来日した外国人を送り出している学校もあるという。日本は公式に移民や難民としての地位をもつハードルがとても高い国だが、いまや日本に中長期で滞在する外国人の数は国民人口に対して2%の数に達している。先述の「実用的」な日本語にはたんにわれわれが蓄積している閉鎖的な含みを相対化してくれるという側面だけではなく、それによって都合のいい労働力を効率よく供給するという側面もある。そのアンビバレンスから逃げないでいることはできるだろうか。
ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ『カフカ:マイナー文学のために』法政大学出版局
本書で提唱されるマイナー文学は、ひとつには「マイノリティの文学」のことだ。俗語としてのチェコ語、宗教的なイディッシュ語、そして行政的なドイツ語という多言語的な環境に引き裂かれたカフカの書くドイツ語は、彼が置かれたマイノリティとしての社会的ポジションと切り離せない。しかし他方で、マイナー文学は「マイナー化」の実践でもある。メジャーな〈文学〉や〈国語〉から抜け出ることの創造性をポジティブに捕まえる実践として、ドゥルーズ&ガタリはカフカの文学を読み解いていく。そういえばカフカも日記をたくさん書いていた。
エリザベス・グロス『カオス・領土・芸術:ドゥルーズと大地のフレーミング』法政大学出版局
ドゥルーズの芸術論の特徴は、そのどこをとっても「芸術未満」の実践への着目があることだと思う。たとえば『千のプラトー』の音楽論は、子供が暗闇で鼻歌を歌うこと、あるいは、主婦が隣家のラジオの音をうるさく思うこと、といった、およそ非芸術的なケースを出発点としている。そこで問題となっているのは、われわれの領土=テリトリーとそれを脱領土化するカオスの関係であり、その意味で鼻歌と家事housekeepingはまさに切り離せないものとしてある。音楽はわれわれが置かれた領土化/脱領土化の運動を整流しもしれば加速しもする。日記は一面では日付にかこつけて日々を領土化する散文だろうが、他面ではふとした瞬間にわれわれを日々から抜け出させてくれる風のセンサーともなる。
エミール・ゾラ『居酒屋』新潮文庫
「この作品は嘘をつかない。民衆の匂いが染みついている。民衆についての真実の書、民衆についてのはじめての小説である」。これは本書の緒言にある著者の言葉だ(僕はこういう前口上がある昔の小説が好きだ)。ゾラのこの小説を読んだのは大昔なので内容はまったくと言っていいくらい覚えていないのだが、生活にこびりついている惨めさが怖いくらいの執念で描かれていて、街の真ん中にある居酒屋の蒸留器や屋根から落ちて身を持ち崩す大工に託されたどうしようもない感じをはっきりと覚えている。あまりにもどうしようもない出来事に溢れているので、このどうしようもなさを「社会批判」として切り出すことすら不適格なんじゃないかと思う。これは生活そのもののどうしようもなさだ。それは振りほどきようもなくわれわれの背後にくっついてくる。なぜか。それはわれわれが逃げるスピードを燃料にしているからだ。
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』講談社文庫
村上春樹の小説でもっと好きなものは他にあるのだが、散文というテーマで言えばこの本を選ぶのがいちばんいいだろう。「文化的雪かき」という有名な言葉が出てくるからだ。本書の主人公は雑誌の広告記事を書いたりするフリーライターで、自分の仕事なんて文化的雪かきにすぎないのだと言う。それが、じゃあ官能的雪かきをしましょうと女の子が言って主人公とセックスする場面に繋がっているから、春樹アレルギーのある人にとっては許し難い感じになるのだが、最後まで読むとわかるのは本書がそうした雪かき的なものからの脱却の物語であるということだ。いろいろあって最後に主人公は、これからは広告でも小説でもなんでもない「ただの文章」を書くのだと決心する。しかしそれは雪かきからの単純な脱却ではないだろう。雪かきの外に自己充足があるのではないし、本書に物書きに向けたメッセージがあるとすればそれは、雪かきのなかに「ただの文章」を探すことがフェアな生き方なのだということだと思う。誰かが雪かきをしないといけないということは動かし難い事実なのだ。
イアン・ハッキング『言語はなぜ哲学の問題になるのか』勁草書房
20世紀に入って哲学には「言語論的転回」が起こったと言われる。もちろんそれ以前も哲学は言語について様々な議論を組み立ててきたが、言語論的転回によって哲学者たちは言語を、たんなる分析対象ではなく自身が用いるツールという観点から研究するようになった。論理はもはや観念的な思考の法則ではなく記号の体系であり、真理への漸近はその体系の整備とイコールになった。哲学者たちは突然、自分らが「何を」語るかではなく、自分らが「どうやって」語っているのかということを気にし始めたのだ。ツールであると同時に、真理の直接的な把握を阻むものとして言語は「気になる存在」になった。その果てに僕は日記を書いているのかもしれない。
ハイデガー『存在と時間』作品社
ハイデガーは本書の冒頭で、自分の使う言葉におよそ一般的なものではない語彙が多く含まれることを断っている。「現存在Dasein」とか「手許存在Zuhandensein」とか、そんなゴツゴツした言葉をわざと気を衒って使っているわけではないのだと。言語哲学の系譜には属さない彼も自分のツールが気になるのだ。原著を読むドイツ語話者にとってもそうであるならそれをさらに造語に翻訳した熟語を読む日本語話者にとってはなおさらだろう。哲学はイデア(古代ギリシア語で「見えるもの」とか「形」という意味)とかコギト(ラテン語の「考える」という動詞の一人称単数形)とか、きわめて一般的な語に変な意味を託してきた一方で——とりわけハイデガー以降——変な意味の変な言葉を使うようになった。ここから生まれる問いはふたつ。どうしてそんなことになったのか(これはphilosophyを「哲学」という造語で訳すことに始まった日本の近代哲学史にとっては一層重要な問いだろう)? そこにポジティブな意味があるとしたらそれは何なのか? ハイデガーの実直さに敬意を表しつつ、とくに「真面目な」文章で自分の書く奇妙にゴツゴツした散文がどこから来てどこに行くものなのか考えたい。
フロイト『精神分析学入門』中公クラシックス
フロイトも言語哲学者ではないが、言葉のことをいつも気にしていた。精神分析の臨床は語りと聴取の実践によってなされるし、本書に収録された講義の初めに彼が分析するのは「言い間違い」である。それは彼にとって昼の論理と夜の論理、意識の論理と無意識の論理の衝突が生み出すものであった。「無意識は言語のように構造化されている」と言ったのはのちのラカンだが、フロイトにとってすでに無意識という彼自身が発見=発明した領野は、意識的思考とはべつの論理に従った言葉がうごめく世界であった。
加えて、僕がこの本が好きなのは、各回の冒頭でフロイトが「みなさん!」という掛け声とともに講義を始めることだ。ハイデガーの実直さに似て彼も、自分が説明する無意識という仮説、そしてあらゆる欲望はそこにある性的なエネルギーによって生まれるという仮説が、この非専門家に向けられた授業において、どこまで常識外れなものに聞こえるかということを気にしていた。そういう距離感を見失いたくなくて日記を書いたところもある。日記を「みなさん!」と言って始めるわけにはいかないが、ともかく。
デリダ『散種』法政大学出版局
本書は三つの長い論考が収録されたもので、それぞれのテーマにも繋がりがあるが、とりわけ「プラトンのパルマケイアー」には、デリダのエクリチュール(書き言葉)論のキモがよくまとまっている、というか、およそ「よくまとまっている」とは言い難いのだけど、込み入ったところは飛ばしてエピソードの羅列として読めば感覚的に入りやすいのではないかと思う。デリダと言えばポストモダン思想を蛇蝎のごとく嫌っている人にとっては哲学を言葉遊びの場にした張本人だが、デリダが問うているのは「真面目な」言葉と「ふざけた」言葉の区別に存している政治そのものであって、SNS上で繰り広げられている言葉の解釈の奪い合いを日々見ているとなおさらアクチュアルな問いだと思う。同じ人が一方で「あいつは冗談が通じない」と言い、他方で「これは文字通りに受け取るべき」と言うような、言葉のメタ的なカテゴリーの奪い合い。日記がいいのは味も素っ気もない日付がメタテクストになっているところだ。あわせて、これは入門書とは言いがたいが、この選書のほかのトピックとのつながりを加味して東浩紀『存在論的、郵便的:ジャック・デリダについて』をオススメする。
ラカン『精神分析の四基本概念』岩波文庫
「自意識過剰」という言葉があるが、それは人間にとってデフォルトであって、この場合の自意識を精神分析では「超自我」と呼ぶ。それは自分を観察しジャッジする自分であり、コンビニで唐揚げ弁当を手に取るときの後ろめたさや、買った服が思ったより似合わないときのモヤモヤを感じるのは、われわれが物心つくときに埋め込まれた超自我の仕業だ。頭のなかで天使と悪魔が口論する漫画によくあるイメージに対応させるなら、天使と悪魔のいずれかが超自我なのでなく、天使と悪魔が戦う平面が超自我であり、それを聞いておろおろしている本人がいる平面が自我だと言えるだろう。したがってそこにはたんなる種類の違いではない階層の違いがあり、異なる階層に引き裂かれる一個の主体であることが人間の難しさである。そして言うまでもなく、自分のしたことについて書く日記にも引き裂かれとその不器用な縫合の難しさは埋め込まれている。とりわけ哲学側からのラカン入門としては、工藤顕太『ラカンと哲学者たち』(亜紀書房)がオススメ。
滝口悠生『長い一日』講談社
ストイキッツァの『絵画の自意識』ならぬ「日記の自意識」みたいなものがあって、それは、〈したことを書くこと〉と〈書くために何かすること〉の厄介な循環としてあらわれる。この循環の極端なふたつのケースとして、日記に書くためのイベントで一日が埋め尽くされている状態と、日記をイベントで埋め尽くすために一日中日記を書いている状態を想定できるだろう。ここには具体的な営為としての日記の可能性はない。逆にいえば日記の具体的な可能性はイベントがまばらであること、つまりイベントレスネスに支えられているのだ。滝口のこの小説は、日記的なエッセイの連載がいつのまにか小説にスライドして書かれた。ここで「日記の自意識」は小説的に解決される。それは書きつつ書かれるという循環から抜け出させてくれる隙間風のような他者との出会いとして描かれるが、しかし同時に、その他者について実際は小説 = ウソなのに日記=本当であるかのように書くことによってまた別の困難が呼び寄せられる。日記も小説もそうした割り切れなさとともにある。
中森弘樹『失踪の社会学:親密性と責任をめぐる試論』慶應義塾大学出版会
ホーソーンに「ウェイクフィールド」という短編がある。男がある日妻と暮らす家を出て、ただなんとなくもう家に帰るのはやめようと思う。しかし出奔するわけではなく彼は家の向かいに別の部屋を借りて、取り残された妻の生活を20年間にわたって眺め続ける。日常を支える共同体や夢や必要があるときふと剥離して、私が生きている「これ」はなんなのかという問いに打たれるエアポケットみたいな場所は、生活のそこここに潜んでいる。少なくとも僕にとって日記を書くことへの衝迫には、そういうリトル・ウェイクフィールド的な何かが含まれていると思う。しかし中森の議論には、そうした離人的な衝迫をいったん認めたうえで、そこから「責任」という問題に立ちかえるところに深みが宿っている。われわれは20年ぶりに帰ってきた無責任なウェイクフィールドと、どのような関係を結びうるのか。
オースティン『言語と行為』講談社学術文庫
本書の原題はHow to Do Things with Wordsで「言葉で何かをする」ことについて書かれている。われわれは言葉で、記述したり報告したり命令したり質問したり嘆いたり嘘をついたりするわけだけど、これらは「行為」としてどのようなものであり、その基本的な条件はどうなっているのか。オースティンはこの問題に取り組むためのフレームワークを苦心して編み出そうとする。本書は講義録なのだが、面白いのはこの講義は失敗の連続だということで、フレームを作ってはそこにエラーが出てきて取り替え、ということが繰り返される。オースティンは事実の記述をする「コンスタティブ」な言明(真/偽で測られる)と、命令や質問などの事実を作り出す「パフォーマティブ」な言明(適切/不適切で測られる)の区別から出発するが、そこにはいかなる明確な基準も設けることができないと言って諦めてしまう。われわれが日々目にするSNSの言った・言われたの争いも、互いの言明をコンスタティブに読んだりパフォーマティブに読んだりすることのすれ違いだという側面があるだろう。そのすれ違いの果てしなさはオースティンがぶつかったものでもあるわけだ。
定延利之(編)『発話の権利』ひつじ書房
席を立ってレジに向かい、テーブルに財布を置きっぱなしにしていることに気づくとき、僕は「財布忘れてた!」と言うだろうが、僕が気づくより早く連れの友達が気づいたら彼は僕に向かって「財布忘れてる!」と言うだろう。彼が「(君は財布を)忘れてた!」と言うとしたらそれはとても不自然な感じがするが、これはどういうことだろうか。編者の定延は言語学者として、こうした問題を「発話の権利」の問題として捉え、本書には様々な角度からこの問題に応答する論文が集められている。置き忘れられた財布の発見を示す言明という、もっぱらコンスタティブに見える発言ですら、話者の立ち位置というパフォーマティブな次元と切り離せない。だとすればむしろ、なぜわれわれはふたつを切り離せる・切り離すべきだと思ってしまうのだろうか。それ自体がなにか特定の「権利」を保持することと切り離せないとしたら?
(写真:竹久直樹)
BOOTHのショップで『日記〈私家版〉』のPDFデータの販売を開始しました。価格は税込み1000円です。
先月、本サイトで書いた日記をまとめた『日記〈私家版〉』を365部限定で発売しましたが、おかげさまでひと月ほどで完売となりました。
これから書店でのトークイベントや選書フェアも控えており、肝心の本がないのはどうかなとも思いますし、今後興味をもってくれたひとに渡せるものがあったほうがいいだろうと思い、PDFデータを販売することにしました。
本文を読むだけならこのサイトで読めるのですが、横長の1ページに1日ずつ割り振ったデザインは、タブレットでスワイプしながら読むのにうってつけだと思います(8インチ以上の画面で閲覧することを推奨します)。
【6月25日追記】
抗議文の投稿から1日経ち、 布施氏から訂正・謝罪をいただきました(リンク)。誠実な内容であると感じましたので、抗議はこの限りといたします。今後あらためてこのたびの議論のもともとの内容であった布施氏の作品・展示や私からの批判について、お互い批判しあう可能性を排除せずにフェアに議論する機会があれば私としても応じたいと考えております。
私自身、今回のことを通して、「議論」や「対話」といったそれ自体ニュートラルな響きをもった実践を可能にする互いの信頼に基づいた場は、非常に脆いものだということをあらためて意識させられました。今後も互いがフェアな、しかし馴れ合うことのない緊張感のある場として言論が機能することに私なりに寄与できればと思います。
【追記終わり】
6月2日にweb版美術手帖で公開された布施琳太郎氏の論考「最高速度で移動し、喘ぐキメラ──今日の芸術の置かれた状況について」において、私は自身の発言が不適切に引用されているとして、ツイッター上で布施氏に抗議をしました。布施氏はそれについて「文をしたため直します」と言ったのにもかかわらず、その後3週間経った今にいたってもいまだ訂正されておりません。自身の発言が明白な誤解を招く状態で引用されたままで放置されていることは私にとって大きな損失であり、このたびあらためてこのように抗議文を発表することにいたった次第です。
ツイッター上のやりとりについてはまとめを作成したのでそちらを参照していただきたいのですが、あらためて私なりに状況を整理しておきます。
布施氏がキュレーター・出展作家として関わった「惑星ザムザ」という展示を私が批判し、その批判的な文脈のなかで「メディア環境を内面化したキメラ」という文言を使用しました。上記の論考で布施氏は、当該の私のツイートへのリンクを貼るだけでその批判的な文脈に一切言及することなく、「キメラ」という言葉をタイトルに含め、本文でも繰り返し自身の態度を象徴する概念として用いています。前段のやりとりを知らないであろう大半の読者は、私が布施氏を肯定的に評価したのだと勘違いするでしょう。このような誤解はたとえば、「福尾はこの語を批判的な意味で用いたが、私はむしろそれを積極的に引き受けるべきだと考えた」といった簡単な補足がワンセンテンスあれば避けることができるものです。
引用の際には引用元の文脈をねじ曲げないように細心の注意をはらうべきだというのは、アカデミックな領域だけにかかわる話ではなく、恣意的な「切り抜き・切り取り」の問題が指摘されているジャーナリズムや文化全般にかかわる問題であり、それは、リンクが貼ってあるのだからそれを踏まない読者が悪いということには決してするべきではないと私は考えます。なぜなら、そのような態度が横行するとわれわれはあらゆる文章の引用元を読まなければ当の文章を信用できないという、全面的な不信に陥ってしまうからです。
あらゆる解釈は部分的な誤解を含んでいるという、それ自体論駁しようのない抽象的な意見はこのことの反論にはなりません。言葉は思い通りにならないということを、だから私の「間違い」は間違いではないという主張にスライドすることは、結局のところ言葉を自分の思い通りに使うことの自己正当化にしかならないからです。
われわれがあらゆる引用元をあたることなく文章を読むことができているのは、その文章に一定の信頼を置いているからです。この抗議の対象に美術手帖を含めることにしたのは、その信頼を構築することの責任は媒体にもあると考えたからです。布施氏はあくまでこれは自分の問題なのだとおっしゃっておられましたが、訂正が長引くほどに誤解する読者が増えていくわけで、そのことに対処する責任は媒体にもあると私は考えます。
以上が私の意見です。布施氏および美術手帖には早急な訂正を求めます。そしてこの抗議が、今後美術の世界でわれわれがお互いの言葉への信頼を高めていく一助となることを望みます。
2021年1月20日、自分でサイトを立ち上げて、それから1年間日記を書いた。それら365日ぶんの日記をまとめ、『日記〈私家版〉』として自主制作で、365部限定で書籍化した。
理由というものがだいたいそういうものであるように、日記を始めたのにも複合的な理由があった。
直前の年末に博士論文を提出して、これからしばらく暇になりそうだなと思ったこと、
ドメインを取ってサーバーを借りてサイトを作ったはいいものの、何か継続的なコンテンツがないと意味がないなと思ったこと、
博論で文字通りにも比喩的にも肩がガチガチに凝り、かといってツイッターは「言うべきこと」で溢れていて、むしろ言うべきことの少なさのために書かれるものが、僕を癒しあわよくば読者を癒すこともあるのではないかと思ったこと、
籠りがちな生活のなかユーチューバーたちが毎日投稿する短いなんということのない動画に、たんにそれが毎日投稿されるということ自体にどこか救いのようなものを感じていたこと、
ゴダールがどこかのインタビューで、若い作家へのアドバイスとしてまずはiPhoneで自分の一日を映画にしてみるといいと言っていたこと。
こうしたぼやっとした動機にそのつどなるべく素直に応えながら、同時にそれを少しずつ分極しながら、日々切れ切れに書いてきた。
ソーシャルでイベントフルな、「密」を避けることでかえってどんどん狭くなっていく世界に吹く、かすかな隙間風に乗って飛んでいってしまうような出来事や断想は、書いても書かなくてもある。しかし書くことでしかその「ある」への信頼を築くことはできない。





(写真:竹久直樹)
販売は主にBOOTHの個人ショップで行います。販売者・購入者が互いに住所を知らせることなく配送できるサービスを利用しているので安心してご利用ください。
また、以下の各書店でも販売されております。
取扱店 (在庫状況は各店舗にお問い合わせください)
日記屋 月日 (下北沢)
本屋 B&B (下北沢)
ジュンク堂書店池袋本店
ブックファースト新宿店
定価:3200円(税込)
365部限定発行、各部にエディション表記付き
本体:B6版、リング製本366ページ(本文用紙のみ、表紙なし)、専用外箱付き
発行日:2022年4月1日
著者・発行者:福尾匠
デザイン:八木幣二郎
印刷:藤原印刷株式会社
製本:鈴木製本
最初に考えたのは作るとしてもあんまりたくさん刷りたくないということで、それはそんなに売れないだろうからということもあるし、在庫を抱えるのは嫌だということもあるけど、いちばんは自分の日記が1000人の部屋の本棚にあるのはなんだか気味が悪いなと思ったからだ。だから「私家」版として、ある程度日記の更新を追ってくれていたひとたちに届くくらいがちょうどいいなと思って、365日書いたのもあって365部限定とすることにした。
造本については1ページ1日で機械的に割り振って、かつ、見開きじゃなくて縦に360度めくるリング製本にするというのは早い段階から考えていたことだった。1日がページを跨がずにスパスパと切れていく感じがいいだろうと考えてのことだ。
さらに表紙を付けずに本文用紙だけを綴じることによって、めくっているうちにどこが始まりでどこが終わりなのかわからなくなるようなものにすることにした。そうすると強度が問題になるので、バインダー状に折った厚紙を本体とは別に添える(それが収納時の保護にも読む時の台紙にもなる)ということも考えたのだけど、結局蓋付きの外箱を発注することにした。どっちがいいか難しいところだけど、フラジャイルな本体をカチッとした箱にしまう感じが日記の気安さと私秘性の共存と響きあっていて気に入っている。
デザインは八木幣二郎さんにお願いした。こんな小さな企画を快く引き受けてくれたのも嬉しかったし、ここまで書いてきたような思いつきを具体的なモノとしてまとめるのは大変だったと思う。突飛なアイデアが紙の質感から組版まで統一感のあるデザインになっているのはひとえに彼のおかげだ。
広告も書店への営業も帯文もなくそれは自主制作である以上そういうものなのですが、tfukuo.com流の販促として、日記読者の方の推薦コメントを募集しようと思います。私家版を手に取った感想でもいいし、まだ買っていない方の本サイトで日記を読んでいて思ったことでもいいです。以下のコメント欄にご記入ください。
掲示板と同じく、本名やSNSのアカウント名など、他の場所で使用している名前は使わずに、本サイト内だけで使う名前で記入してください。
2021年1月20日から毎日書いていた日記が、丸一年を区切りにして終わりました。誰かが読んでくれているという支えがなければとうてい続かなかったので、何よりまず読んでくれた方々にお礼を申し上げたいです。どうもありがとうございました。また、当サイトの「日記掲示板」で僕の日記に並走するように書かれた、誰とも知らない誰かの日記を読むことも励みになりました。掲示板は書いてくれる人のいるかぎり続けるので、どなたでも気軽に書いてください。
終わってしまったことが思いのほか寂しく、そのことに動揺しているのですが、しばらく考えてまたこのサイトを使って何かしようと思います。とりあえず日記は終わりましたが、このサイトは動かし続けようと思っているので今後もよろしくお願いします。
それと、いま1年分の日記を表記レベルの修正以外はすべてそのままで本にまとめた『日記〈私家版〉』(仮)を制作しています。完全自主制作で、365部限定で今年3月ごろに販売することを予定しています。値段は3000-3500円のあいだになる予定です。
私家版は少部数発行なのもあり、もともと日記を読んでくださっていた方に優先的に行き届くようにしたいと思っております(読むだけならここにすべてありますし)。そこで、まだ値段もデザインも確定していないのですが、それでもほしい、出たら買うという方がもしいらっしゃれば、取り置きを承ろうと思います。本記事下部のGoogleフォームのリンクから申請してください。この取り置きは在庫確保のためのものであり、発売後に別途購入手続きをしていただいたうえで発送作業を行います。したがって本申請は発送の優先順位には関わりません。もちろんいつでも取り置きを解除することも可能です。
取り置きはあくまで発売開始までの幅を取ることで「もともとほしかったのに買えなかった」ということを最小限に抑えるための方策です。365部というのが多いのか少ないのか僕もよくわからず、すぐにぜんぶなくなっても100部余っても不思議ではありません。しかし少なくとも増刷はないので、心配な方は申請してもらえればと思います。
私家版については情報が揃い次第こちらでまたお知らせします。続報をお待ちください。何か問い合わせ等あればtakumi.fukuo@gmail.comまでご連絡ください。
↓取り置き申請フォーム
https://forms.gle/nVVnV9sDsovC8fZR6
追記(2022/04/10)
取り置きの受付は4月20日24時までとします。翌日から4月末までを取り置きしてくれた方のための先行注文期間(発送は4月末以降)とし、5月1日から一般販売を開始する予定です。その後も取り置きは継続しますが、改めて事前にご連絡したうえで5月末で取り置きを解除させていただきます。
追記(2022/04/25)
前回の追記で5月1日発売予定としていたのですが、印刷の工程でミスが発生し刷り直しとなったので2週間ほど発売が遅れます。楽しみにしていただいた方には申し訳ないのですが、今しばらくお待ちいただければと思います。