日記の続き#307

かつて松岡正剛は「読者モデル」という言葉を雑誌に限らず書籍一般に敷衍して、それぞれの本の魅力を引き受けるような読者像の側から本をプロモーションをする可能性を説いていた。又吉直樹は太宰の新しい読者モデルだっただろうし、松岡自身も折口信夫やら寺田寅彦やらの読者モデルになっているだろう。これはすでに物書きである人間が私淑する書き手を紹介するということに留まらず、たんなる読者がたんなる読者のままでなにがしかの趣味にコミットする可能性をも含んでいたはずで、つまり、「推し」なきファンダムのようなものが——卑近な例としては「ハルキスト」という言葉に表れているような——が10年20年前には普通にそこらにあったはずなのだ。

こないだ黒嵜さんと話していて、誰もがクリエイターあるいはプレイヤーだということは逆に言えば明示的にそうでない者は全員未然の「ワナビー」であるわけで、それは近頃の人文系の論調にも表れているが、それに対して福尾くんは見るだけ・読むだけの可能性を理論のレベルで示そうとしているように見えると言ってくれた。そうかもしれない。客が客でいられないというのは窮屈なことだ。