日記の続き#321

5章の冒頭の節を「20世紀哲学者列伝」というタイトルにしてプロットを作る。ドゥルーズの言語論(と、言語実践としての哲学論)を見たあとであらためて言語論的転回以降の哲学の流れがどのように見えてくるのか、はたして思弁的転回はその外に出ているのかということをworkflowyでばーっと書いていく。言語論的転回はまだ終わっていない。実際にはおよそ「列伝」ではないのでどうせあとで名前は変えるのだが、たんに書くうえでテンションが上がるし、哲学史とするよりそれぞれが勝手にやっている感じが出ていい。

こないだのワークショップで日記を続けるためにはモチベーションを複数持つといいと言って自分の動機を5個話したが、いちばん大きい「野心」の存在について話さなかったのはウソだったなと気づいた。野心がなきゃこんなに続くわけがない。どういう野心か? このタイミングでこの立ち位置で3年間日記を書けば、自分以外全員を相対化できるという野心、書いてしまえばあとは僕の価値に付随して日記の価値も上がるという野心だ。野心は相対化のフィールドから出るためにこそ使うといいと思う。