日記の続き#335

夜2時頃に布団に入ったが結局寝付けず、諦めて起きて本を読んでいてふと気になって連載1回目の締め切りを確認するとあと1ヶ月ちょっとで、この原稿は締め切り直前の焦燥で突破するべき類いのものではない、というか、そういう焦燥で書いた文章のトーンは適当ではないという勘が働いて、すぐにエディタを開いて1000字ほど書いた。あまりに気が抜けた文章になったようにも思うが、文章がうまくなったからこそこういうものが書けるようになったのかもしれないとも思う。今のところ採用するか五分五分というところだが、せっかくなので以下にコピペしておく。

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いやはや。結局構想が固まることなく連載が始まってしまいました。

書きたいことはいくつかふわふわと頭のなかにあるのだけど、それにどう順序を付けて、どういうトピックで区切って書いていくべきか考えようとすると、ふわふわさせておいてときおり眺めやる限りにおいては魅力的に思えたアイデアが、なにかとたんに味気ないものに見えてくる。

そもそも連載で論考を書くのが初めてで書き方がわからないという事情もある。たしかにつつがなく連載が続けば一〇万字規模になる理論的な文章を、あらかじめ作った設計図を塗りつぶしていくように毎月頭から順に書いていくというのは不可能に思う。最近読んだ柄谷行人の『探求』も初出はこの『群像』の連載だったようなのだけど、論述の進み方はおよそシステマティックなものではなく、基本的にはどの章も同じような話を角度を変えて書いているだけで、ちょっと安心しました。

あとがきで彼は次のように書いている。「「探求」はいつまで続けてもよいし、いつ終わってもかまわない。それは同じことの「反復」であるかもしれない。だが、私にとっては、それはそのつど新しい経験である。書くことが生きることであるということを、私は初めて実感している」。

柄谷も僕のようにまとまった構想がないままよーいドンが鳴ってしまったのか、あるいはもとより書きながら考えるつもりだったのかわからないけど、「書くことが生きることである」と言う彼の気持ちはわかるような気がします。というのも僕はここ二年くらい毎日日記を書いて自分のサイトで公開していて、そうすると書くことはもはや炊事洗濯と同列の生活の一部になってきます。

いや、おそらく柄谷はそういう卑近な話をしているのではなく、書くことこそが生きることなのだと言っているのでしょう。でもそんなことは僕にも彼以外の誰にも関係ない。というか、彼だって生きるために書く以外のことをしているわけで、書くことこそが生きることだというのは強弁である。だからダメというわけではなく、僕が面白いと思うのは、書くことこそが生きることなのだと言っても、書くこと以外をしなければ生きられないわけで、生きる意味を代表したり生活の一部になったり、その両者を揺れ動くことに書くことの本質があらわれているように思われることです。超越と内在と言ってもいいし、メタとベタと言ってもいいし、自意識と無意識と言ってもいいし、パフォーマティブな宣言とコンスタティブな記述と言ってもいいと思うけど、連載であれ日記であれ機械的に区切られたペースで文章を書いているとどうしたってそのふたつをパタパタと交代させていくことになる。これは炊事洗濯ではあまり起こることではない(いや、たとえば冬の洗濯機のなかで絡まり合った冷たいバスタオルを掴むとき、人は生の意味に触れてしまっているのかもしれないが、ともかく)。