日記の続き#360

寝付けないまま朝になって日記を書いて、2時間だけ寝て、それでも眠くて本も読めないので午後はRIZINのオンラインチケットを買って見ていた。なんだかんだここ2年くらいの全体会を見ているんじゃないか。演出としてはPRIDE以来のおっさん世代と朝倉未来以降の令和ヤンキー世代の価値観のあいだに奇妙な連続性が出来上がっていて、その全体としてのガキっぽさはあれ、ともかくもそうしてひとつの「アリーナ」が機能しているというのは今の日本にはあまりないことだ。なぜそれが総合格闘技なのか。ひとつには選手生命が比較的長く、こないだの大晦日に所英男(あの「闘うフリーター」だった人)と20代前半の神龍誠の試合があったように、競技レベルでベタに世代交代劇を演出しやすいということがある。とはいえこの大乱闘スマッシュブラザーズ感(日本における格闘技と格ゲーの関係についてはいずれまとまった考察がなされるべきだろう。黒嵜さんと何か考えてもいいかもしれない)もそう長くは続かないだろう。なぜならもう、いまの20歳くらいでRIZINを飛び越えてUFCで活躍し始めている選手は、キックボクシングやら空手やらレスリングやら他競技からの転向ではなく最初からひとつのスポーツとして総合格闘技をやり始めている世代で、「異種」格闘技だったものがベタに「総合」格闘技になりつつあるからだ。

連想を続けると、朝倉未来が平本連をSNS上の煽り合いの末に訴訟したというのは非常に象徴的なことだ。つまりこれは、「決着」の場としてリングと法廷が同等のものになりつつあるということで、言論の世界でも訴訟沙汰が散発するようになっていることと考え合わせるとおもしろい。言論のパフォーマンス化、スタイルの「総合」化、決着の司法化。に抗するには?