6月17日

ひとつの作業のなかで、土を耕し、種を撒き、枝を間引き、実を収穫する。そういうそのつど一であり多であるビオトープのようなものに自分の仕事がなりつつある。たとえばある原稿のプロットをしばらく作っているとツイートしておこうと思うような方法論上のアイデアが浮かんだり、買おうと思っていた本を思い出すことが問いの定式化につながったりする。でもそういう放埒は自分はいま「これ」をやっている、やるべきなのだという規範意識と相性が悪く、その裏切りとして、あらゆる作業が他の作業からの逃避に思えてしまうということとセットである。この両義性の外にあるのは? ひとつの原稿の連続性。でもそれが自分のワーキングメモリに収まらないほど長く、次の一手にそれまでのすべての手がくっついてくるような構造の原稿である(一=多がそこで反復されている)場合には? わからない。章立てやトピックなど、寄りかかれる切れ目が役立たないのなら。

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カテゴリー: 日記