6月26日

月末にはもう連載3回目の締め切りが来るのだが、どうにもまだ取りかかれていない。書くのが嫌なときほど読書ははかどるもので、まあこうしているうちにも義務感が引力になって勝手に頭のどこかで結晶化は始まっているのだ。しかし今日あったそれらしいことと言えば「たんなるパフォーマンスの限界内における宗教」というタイトルが思いついたぐらいで、しかも「たんなる理性の限界内における宗教」を読んだことがない。しかしたしかに、「パフォーマンス」ほど奇妙な負荷がかかっている語彙も現在なかなかない。

とりあえず以下の一節を、昨日引用したものと並べてみる。

「私の言葉が私の証文であるときに私の言葉を反故にすることは、私の身体を反故にするようなものであろう。そのときまだ法が存在していて、私の身体がまだ読解可能なものであるならば、それは新しい法であるにちがいない。」
(スタンリー・カヴェル『哲学の〈声〉——デリダのオースティン批判論駁』中川雄一訳、春秋社、2008年、172頁)

バトラーもカヴェルも、言葉と身体の不一致をテコにして表象的な真理とパフォーマティブな権能を同時に解体しようとするが、そのとき身体なき言葉、言葉なき身体は想定されるやいなやブラインドされる。どうしてか。なぜそれが嫌な感じがするのか。そこにある広義の現象学的な匂いが嫌なのか。

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カテゴリー: 日記