ツイートしているといい感じに話が転がったので貼り付けておく。
たとえば哲学系の学術論文でその研究の社会的意義が語られる文字数が1000字を超えることはほとんどないと思うのだが、それを毎回頭のなかで3000字ぶんに拡張しながら書く人とせずに書く人の違いは大きい。(19:42)
[↑リプライ]ここで3000字とは、出来合いの理論を使って超然と語るだけでは済まず、「馬脚を現さ」ざるをえないような物量として想定している。(19:45)
多くの研究者(志望)は、公開を前提として生産する文字数が10倍くらい足りないと思う。少ないとボロを出さずにやり過ごせる。そうやって互いに牽制して小さくまとまったフォームが浸透する。(19:52)
僕はここ3年は日記含め毎年20万字以上書いているし、修士を出てからで考えても1年10万字以下になったことがないんじゃないかと思う。博士の最初の2年で『眼がスク』を書いた後は依頼をこなしつつ2年で博論18万字を書いた。単純な量の問題はみんな嫌なのであまり話さないが。(20:04)
それに加えて毎月1万字ちょっとの連載が始まったところ。まだ3回ぶんしか書いていないが。(20:06)
[19:52の引用RT]フーコー『言説の領界』を読むとこの「少なさ」の意味がよくわかる。(20:19)
あなたが「なんであんなやつが」と思うような人は、たいていあなたより量をこなしている。(20:29)
なんかつらつら書いていると、僕なりのベルクソン『笑い』の読み方が作れそうな気がしてきた。自動性、映画、白痴、人を好きになること(=転移)。(20:35)