8月30日

僕の文章を読んだ誰かが文章を通り越して僕のことを好きになる可能性があり、その可能性がある限り僕は僕でそれに寄りかかってものが書ける(どこかしらひとはそのようにして書く)というのは二重に不思議なことだ、というようなことをツイートしていて、ドゥルーズの「可能世界の表現」としての他者論、とりわけその「顔」論としての側面は、「自分の顔は自分より他者のほうがよく知っている問題」として考えたほうがいいのではないかと思いついた。ちょうど連載のほうでも、書くことについて論じる行きがかり上のたとえ話として、自分が書こうと思っている以上のものが文章には出てしまうものだが、それは自分の顔を他人のほうが知っており、その意味で顔は「自分より自分」であるのと同じように、散文は「自分より自分」なのだ、そしてそれが散文の自由なのだというようなことを書いた。それで、ドゥルーズの他者論では他者の顔はいま実現している世界とは別の世界を表現すると考えられている。たとえば、疲れきった私に世界は「疲れ」として見えるが、ある他者の顔は疲れていない世界を表現する。他方で、自分の顔を自分より他人のほうが知っているというのは、恐るべき、しかし厳然たる事実である。この恐怖にひとはどう対処するか。自分の歴史に寄りかかることで、自分のことは誰よりも自分が知っていると思い込もうとする。すると私は過去に置かれる。すでに過ぎ去った世界に私が置いて行かれてしまう。しかしそうしているあいだにも、私の顔を私より知っている他者が、私から何らかの表情=表現を受け取っていく。それで? まだちょっとピースが足りない感じがするのでとりあえずここらへんにしておく。

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カテゴリー: 日記