10月28日

原稿を書きながら『千のプラトー』を読みなおしていた。

「戦争機械と国家装置を比較するために、ゲーム理論の立場から、将棋と碁という具体例を取り上げて、それぞれの駒、駒どうしの関係、そして空間のあり方を検討してみよう。将棋は国家のゲームあるいは宮廷のゲームであって、それに打ち興じるのは中国の皇帝である。将棋の駒の総体はコード化されていて、おのおのの駒は、駒の動きや位置、そして駒同士の敵対関係を規定する内的本性つまり内的諸特徴をそなえ、名前と資格を付与されている。したがって、桂馬は桂馬、歩兵は歩兵、飛車は飛車のままである。一つ一つの駒は、いわば相対的権能を付与された言表の主体であって、このような相対的権能のすべては、言表行為の主体、将棋を指す人自身あるいはゲームの内部性形式において組み合わされる。これに対して、碁石は、米粒というか錠剤というか、要するにたんなる数的単位にすぎず、無名の機能、集団的ないし三人称的機能しかもたない。「それ」はひたすら進むのであって、ひとりの男でも女でも、一匹の蚤であっても象であっても差し支えないのである。碁石は主体化されていない機械状アレンジメントの要素であって、内的特性などもたず、状況的な特性しかもたない。それゆえ駒どうしの関係も将棋と碁では非常に異なっている。将棋の駒は、内部生の環境において、自陣の駒どうしのあいだに、また敵陣の駒とのあいだに、一対一の対応関係を取り結び、構造的に機能する。碁石のほうは、外部性の環境だけを、すなわち星雲状、正座状の布置とのあいだに外部的な関係だけを構成し、これらの関係にしたがって、縁取る、囲む、破る、などの挿入あるいは配置から生じる機能を果たすのである。」ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』宇野邦一ほか訳、河出文庫、下巻15−16頁。

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カテゴリー: 日記