10月31日

「私たちは無用の言葉によって、さらには途轍もない量の言葉と映像によって責めさいなまれている。愚劣さはけっして口をつぐもうとしなかったし、目を閉じようともしなかったのです。そこで問題になってくるのは、もはや人びとに考えを述べてもらうことではなく、孤独と沈黙の気泡をととのえてやり、そこで初めて言うべきことが見つかるように手助けしてやることなのです。押さえつけようとする力は、人びとが考えを述べることをさまたげるのではなく、逆に考えを述べることを強要する。いまもとめられているのは、言うべきことが何もないという喜び、何も言わずにすませる権利です。これこそ、少しは言うに値する疎らなもの、あるいは疎隔されたものが形成されるための条件なのですから。私たちを疲弊させているのは伝達の妨害ではなく、なんの面白みもない文なのです。ところが、いわゆる意味というものは、文がよびさます興味のことにほかならない。それ以外に意味の定義はありえないし、この定義自体、文の新しさと一体をなしている。何時間もつづけて人の話を聞いてみても、まったく興味がもてない……。だからこそ議論をすることが困難になるわけだし、またけっして議論などしてはならないことにもなるのです。まさか相手に面と向かって「きみの話は面白くともなんともない」と決めつけるわけにはいきませんからね。「それは間違っている」と指摘するくらいなら許されるでしょう。しかし人の話はけっして間違っていないのです。間違っているのではなくて、愚劣であるか、なんの重要性ももたないだけなのです。」ジル・ドゥルーズ『記号と事件——1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出文庫、2007年、260-261頁(原著を確認のうえ訳語を変更した箇所がある)。

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カテゴリー: 日記