11月21日

いつも昼になると、横浜橋商店街の入口に接する大通り公園の広場で20人くらいの老人が集まって将棋をしているのだが、今日見てみると将棋ではなく、誰かがもってきた小さなこたつ机の上にトランプを並べて何かのゲームをしていた。よく見るホームレスのおじさんがその人だかりの脇に座っている。彼は商店街の店が閉まるとその軒先に寝て、昼は公園に座っている。

戸塚の耳鼻科で3回目のBスポット治療。いつも夕方になるとやってきた頭痛はすっかりなくなった。状況を見て新たな薬が出される。待合にいると親子が診察室に行って、しばらくして3歳くらいの子供だけが戻ってきた。ビニールのソファの上に寝転がって、赤いスリッパを床に投げ捨てる。棚から本を出してきてぱらぱらめくっている。慣用句の辞典らしかった。それくらいの子供がひとりで何かしているのを見ることもないのでしばらく見ていると会計に呼ばれた。

先日YA-MANにオープンフィンガーグローブのキックボクシングで負けた朝倉未来がYouTubeにひとりで撮った動画を上げていて、少し休むが必ずまた戻ってくると言って涙を流していた。いつも仏頂面を崩さない彼が泣くのを見て、同い年なのもあり、考え込んでしまった。スポーツ化する総合格闘技の向こうを張って「ガチ」の喧嘩の場として作ったはずのブレイキングダウンがどんどん「ネタ」になり、不良キャラの延長線上で作ったYouTubeが300万人のチャンネル登録者を抱える一方で格闘技に専念しろと言われ、単発の危うい興業を助けるために出た未経験のルールの試合で格下のYA-MANにあっさり負け、自分はひとを喜ばせることにいちばんの喜びを感じると言いつつ、自分のために格闘技をやりたいと言う。彼のようなひとを救うには、ガチかネタか、あるいはその識別不可能性ばかり言っていてもしかたがないのだ。ひとが泣いたり笑ったりするのは、それがガチかネタかわからないからではなく、「ガチであれネタであれ」それを出来事として肯定しているからだ。そういうことができるんだということを僕なりにやりたい。

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カテゴリー: 日記