3月10日

校正の続き。「韜晦」とか「馴化」とか、そういう語彙にルビを入れる提案がなされていて、すべて拒否している。なんでも読めればいいというものではない。読めない漢字がちらほらあるほうが、むしろ読めないことに対する神経質さが和らげられるだろうし、漢字が読めれば読めるわけでもない。というのは、ここのところ立て続けに柄谷行人の『日本精神分析』と山城むつみの『文学のプログラム』を読んだからかもしれない。漢字かな交じり文、あるいは訓読は、中国語を書くかのように日本語を読む(ものとして日本語を書く)もので、その「かのように」の数だけいろんな表記が発明されてきたということなのだろう。いずれの議論も話としてはおもしろいがどうにも引っかかるのは、漢字が読めることになっているからかもしれない。カナモジ運動もローマ字運動も潰えた。他方で日本語独自の筆記機械は浸透せずいまだにQWERTYキーボード+ローマ字入力+漢字かな変換で書いている。どうしてか読める文字で書こうということにはならないらしい。

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カテゴリー: 日記