3月20日

水曜だが休日。春分の日。でも関係ない。あさって返す初稿ゲラをもう一巡、全体の半分くらい見返した。書き換えたセクションとの整合性を確認して、ペンディングにしていた箇所を確定して付箋を外していく。朝から晩まで。背中が強ばって、眼が痛くなる。でもここ2年くらいかけて、そういうことのやり過ごし方がわかってきた。最低限のストレッチ、最低限のマッサージ、最低限の深呼吸、最低限の仮眠。

「概念」と呼ばれるものが、どういうふうに作られるのかわかってきた。それはなにか別の作業の副産物として出てくる。ジグのようなものだ。何かを組み立てる。まだ組み立っていないものを支えるために、ジグが必要になる。組み立ててしまえばジグはもう要らない。それを誰かが、あるいは未来の自分が、またジグとして使うかもしれないし、あるいは別の何かの部品に使うかもしれない。そういうものだ。誰かがもういちど使うまでそれは概念ではない。これは「解釈の自由」とは異なる。解釈は解釈する対象との関係に依存するが、余ったジグを別のものに使うことは、もとの組み立てられたものに依存しないからだ。だから、たとえば、僕は『眼がスクリーンになるとき』を書いたあとで「リテラリティ」が概念のように受け取られたことが、嬉しくもあり、たんにドゥルーズの使っている言葉の、邦訳版でバラけていた訳語を揃えただけなんだけどなと思っていた。でもそういうものなのだ。

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カテゴリー: 日記