4月21日

ここ数日起きてすぐ日記を書いている。早起きクラブもわりと活発で、「他人の日記」サーバー同様、べつに喋りたいわけではないが誰かがいるところに言葉を投げたいというニーズはあるのだと思う。起きて、ご飯を食べて日記を書いて、今日は何をするんだっけと作業のログを確認する。

それで、何をするんだっけ。ハラウェイの『伴侶種宣言』を読み終えたから、その感想を「言葉と物」のドラフトに組み込むんだった。いちばん引っかかるのは本書における「ペット」の位置づけ(られなさ)だ。本書において犬と人とは、「重要な他者(significant other)」として関係し合うべきものと考えられる。個々の犬との関係は、犬の家畜化の数万年の歴史における自然−文化の絡まりを背景にしている。遡行すべき無垢な「自然」も、杓子定規に適用可能な「権利」もない。ここまではよくわかる話だ。そのような不純さを十全に生き抜くものとして、ハラウェイはアジリティー競技という、犬の障害物競走にのめり込む。そこで犬と人は自然−文化の絡まりあいのなかで獲得してきた互いの能力を高め合い、「存在論的コレオグラフィー」としての特異な線を描き出す。「重要な(significant)」とは、「意味のある(significant)」ということでもあり、犬と人とは非言語的な意味/非意味的な言語の場としてひとつのフィギュアを踊る。しかし猟犬、牧羊犬、警察犬等々のプロフェッショナルな犬でもなく、スポーツにおいておのれの能力の限界に挑戦する犬でもない、室内で飼われ、ただ毎日の散歩を楽しみにしていて、老いたらカートに乗せられて散歩を続けるような犬は、二重に家畜化・屋内化(domesticated)されているか、あるいは過剰に人格化されているかのどちらかでしかないのだろうか。そういえば「ハラウェイ博士」も出てくる押井守『イノセンス』でバトーの犬は、散歩すらしていないかったような。

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カテゴリー: 日記