5月27日

フィロショピーの『差異と反復』2回目。「思考のイメージ」批判について話していて、「自明の理」を疑うという言い方では不十分なのかというコメントがあった。当たり前のことを疑うというのは聞こえがいいし、実際哲学は往々にしてそういうものとして自認するわけだが、疑われた世界により確かなしかたで戻ってくるために疑うだけなのだったら、それは既成の価値の追認でしかないというのが、ドゥルーズの話のポイントなのだと話す。デカルトのコギトも、すべてを疑ったすえに「私」に帰ってくるわけで、幸福はわが家にありましたというおとぎ話と変わらない。そういう、常識を疑って常識に帰ってくるための装置として哲学が使われることがドゥルーズは我慢ならなかったのだろう。

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カテゴリー: 日記