日記更新終了のお知らせ

2024年6月1日の日記をもって、3年間書き続けた日記の更新を終了します。書き続けたといっても、丸1年が終わるたびに2ヶ月ほどの休止を挟んでいて、正確には、2021年1月20日から2022年1月19日まで、2022年4月7日から2023年4月6日まで、そして2023年6月2日から2024年6月1日までの3年ぶんの日記を書いてきました。

まあ、数十年単位で日記を書いているひともたくさんいるので、それ自体がどうということもないのですが、僕としては1年目の途中に決めた3年間書くということをつつがなく終えられてほっとしています。最後までどういうひとにどういうふうに読まれているのかははっきりしませんでしたが、ともかく、更新通知ツイートへの反応や、サイトのトラフィックとしてぼやっと現れる読者なくしては続けてこられなかったことはたしかです。たぶん、それぞれの勝手なそのときどきの疎密があって、こちらが続けているからこそそういうものとして関われるわけで、それが日記を公開することのよさのひとつなのだと思います。

これから日記をどうするのか、また本にするのか、するとして自分で作るのかどこかから出すのか、ということはまだなにも決まっていません。いずれにせよここにすべての日記があることは変わらないので、ひまなときに「ランダムに日記に飛ぶ」リンクをぽちぽち押したりしてみてください。

しばらく休みますが、このサイトは継続的になにか書く場としてまた別のかたちで使っていこうと思います。長いあいだお付き合いいただきどうもありがとうございました。

6月1日

昨日と似たような行程を、今日は妻と一緒に辿った。つまり、カラスの群れの声に起こされて、昼過ぎに外に出て、イセザキモールを関内のほうへ歩いて行って、昼食を食べて、カフェで本を読んで、本屋に寄って買い物をして帰る。違うのはサーティワン・アイスクリームでアイスを買って帰ったことで、土曜だからか家族連れが並んでいて、ようやくアイスを受け取った妻にアイスを買うだけで大事やったねとつぶやいた。帰ってシンクでドライアイスを溶かして遊んで、夕食にミートソースパスタを作って食べた。風呂上がりに僕はラムレーズン、妻は杏仁豆腐味のアイスを食べた。開けた窓から街の音が聞こえていた。

これで日記はおしまい。日記があってもなくても日々は続く、ということへの信頼みたいなものを育てるために、いつ終わってもいい書き方で毎日書いてきたのだが、1年目の途中に決めた丸3年でやめるということがこうして実際にやってくると、なにか恐ろしいような気もする。他方でやはりこのかたちで書くことにどこか狭苦しさを感じ始めてもいて、このかたちというのは、日記のことでもあるが、それ以上にたぶん、昨日のことについて睡眠というパテーションを挟んで今日書くことだ。でもそれによって日記を書く時間は、すでに昨日ではないがまだ今日でもないある種の人工的薄暮——国際線機上の夜のような——としてあって、むしろその手狭さは心地良いものであったこともたしかだ。だから結局のところよくわからない。いや、矛盾があると思うからわからないのであって、矛盾に見えるものが並んでいるという事実のほうが広いのだ。恐れているのもそのことかもしれない。信じているのものそのことかもしれない。

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5月31日

カフェドクリエで黒嵜さん、山本さんとの鼎談の構成を仕上げて、編集者にメールで送って、さて、と思った。さて…… さて…… いや、もうすることがないのだ。もう来月末の連載締め切りまで、細々したものをべつにすれば何も考えるべきことがない。隣のやよい軒に移って空いていたので4人席に座って、出てきた生姜焼き定食も、肉の焼き目とぱりっとした白さを残したもやしのコントラストが絶妙で、ここには炒め上手がいるんだと思った。有隣堂に寄って5階の人文書から下りながら本や文房具を眺めて、町屋良平の『生きる演技』が気になっていたんだったと見に行くと、そこに村上春樹の英語版短編集のセレクトを踏襲した『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』が面陳で並んでいて、どうしていまさらこれがプッシュされているのかと思いながら、3冊ともレジに持っていって、紙袋に入れてもらった。ベローチェに移って3冊をテーブルに出して、暇つぶしに寄った本屋で買った本をこうして読むのはいつぶりだろうと思った。大きな窓をそのまま、京浜東北線が横切っていく。

『象の消滅』の最初の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を読む。僕も彼とほとんど同い年で、見ようによっては失職した身なのだと思う。スパゲティーのゆで時間ばかり話題に上がるが、そもそも日常的にスパゲティーを作る人間はそれを「スパゲティーをゆでる」という言い方では言わないのではないかと思う。作り置きのソースで作るにしても(実際たぶんそういうことなのだが)、麺をゆでることより作り置きのソースを再加熱することをまず言うだろう。いなくなった猫を探して入口も出口もない「路地」に入る。ドゥルーズ&ガタリはカフカの小説を「入口の多数性の原理」(どこから入ってどこから出てもよい)で説明したが、春樹の小説は袋小路ですらない閉域から始まる。突然10分くれという電話がかかってくる。10分くれと言われてしまうともうその10分から出られない。あるいは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の、上がっているのか下がっているのかわからないエレベーター。ねじまき鳥は、猫のねじを巻かなくなってしまったのかもしれない。ちょうどいま読みかけのル・クレジオ『メキシコの夢』では、侵略前のメキシコの人びとが太陽(の神)に明日も戻ってきてもらうために血を捧げる儀式をしていたことが書かれていた。ヒューム的な懐疑に血で応答する。疑ってしまった以上それくらいしないとウソだよなと思った。その点現代の黙示録的な論調はむしろ、しゃかりきになって疑ってみせる白々しさと、それを指差されたときのためにわかってやっているんですという二重底のウソくささがある。

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