日記の続き#346

今日は文字を書かなかったなと思ったが、ちゃんと考えると日記とメール1通、ツイート1つ、妻とのLINEを書いていた。家にひとりでいて、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーのアルバムとジョージ・ハリスンのMy Sweet Lordが入ったアルバムを交互にスピーカーから流しながら、ドン・デリーロの『ホワイトノイズ』を一日中読んでいた。まだ事件が起こらない第1部はこんなのは読んだことがないという文章があったのだが、話が見えてくるにつれて各章の強度が落ちてきているように感じて、難しいものだなと思った。描写にポンと入ってくる視野の外のものが独特だ。人物たちは自分に起こることからいつも少し隔てられている。注意欠陥的な認知の文体を作った最初の例と言えるかもしれない。

こんなエピソードがある。ひとりの子供がぜんぜん泣き止まない。病院に連れて行ったり、妻の仕事終わりを待つ駐車場で車のハンドルを握らせてちょっと走らせたりしても一向に泣き止まない。車の中で主人公は子供を抱きながら、ひょっとして自分は泣き止んでほしいと思っていないのかもしれないと思う。「私はその泣き声が、まるで土砂降りの雨のように押し寄せるにまかせた。ある意味で、私は泣き声のなかに入っていった。それが私の顔や胸を、飛沫を立てて流れるにまかせた。私はこう考え始めていた。ワイルダーは泣き叫ぶ音のなかに消えてしまい、彼の失われた、宙づりのままの空間に私も入っていければ、人間にとって理解可能なものの範囲を向こう見ずなまでに拡大するという驚異を繰り広げられるかもしれない」。帰り道の途中に彼は泣き止み、家の子供たちは7時間ぶっ通しで泣き続けたワイルダーを、彼がひとりでどこか遠くに行って帰ってきたように敬意を込めて眺める。

妻が友達の家から帰ってきた。これをもらったよと言って、イタリアの小さい唐辛子とパスタの麺の袋をバッグから出す。これでペペロンチーノを作ると美味しいらしい。みんなで作った鯛と菜の花の春巻きも美味しかったので今度作るよと言うので、いろいろ学んできたんやなと言った。