やんわり移される

コンサータを処方できる病院にやんわり移された。うちでは出さないことにしているからと。覚醒剤みたいなものだからと良識的なことを言うが、要は紹介というかたちを取った厄介払いだ。それが昨日で、今日さっそく新しい病院に行った。有隣堂で柴崎友香さんの『あらゆることは今起こる』を買って読んで診察までの時間を潰す。たぶん僕もそうなんだろうなと思う。朝起きて椅子に座ると、これからやるべきこと、やりたいことが遠近を問わず頭に押し寄せてくる。いったんコーヒーを淹れよう。淹れて机に戻ると、またゼロから組み立てなおさないといけない。トイレに立ってもそう。スマホを開いてもそう。なによりまず、ご飯も食べないといけない。買ってきて食べるか、出かける準備をして外で食べてそのまま外で作業をするか。仕事をするために考えることが、どんどん自分を仕事から遠ざける。いっそのこと朝ご飯は抜いて、もう出てしまおうか。でもまださっき淹れたコーヒーは半分以上残っている。また遠ざかる。毎日そんな感じで、これはヤバいのではないかと思ってきた。柴崎さんは20年違和感を抱え続けていたらしい。予約の時間が近づいて、ベローチェを出るときに有隣堂の袋を店のゴミ箱に捨てる。受付で手渡される問診票に自己評価についてのアンケートがついていて書き込む。不思議なほどおどおどした医者が、診察室から腰をかがめて直接僕を呼びに出てきた。昨日の病院からの紹介状があったからか、すでにコンサータを処方する前提で話が進む。結局僕は、MBTI診断より設問が少ないようなアンケートしかエビデンスを採集されていないが、そんなものでいいのだろうか。柴崎さんは脳波の検査まで受けたようだが。症状を聞かれ、考えるほどにやるべきことから遠ざかってしまって、本来1日3-4時間は執筆だけに充てられる体力的・時間的余裕はあるはずなのだが、1時間できればいいほうなのだと言う。子供の頃は? 子供の頃はずっと上手くやっていたけど、宿題はまともに出せたためしがないし、仕事に要する思考のとりとめもなさが、そのまま仕事の手前に染み出してくるようで、ここ数年で酷くなった気がすると話す。まずは18ミリ。2週間後に増量を検討。どうして処方したがらない病院もあるのかと聞いてみる。依存性があるからと言うが、実際危険はそんなに大きくないし、バックアッププランがあるわけでもないからほっとくだけになってしまうのだと言う。コンサータ処方に義務付けられた登録証の仮のものをもらって向かいの薬局で薬を買う。自立支援に申請すると自己負担1割で買えるようになると伝えられる。ドトールに寄って1錠飲んでみる。「2024/07/02、17:12、コンサータ飲み始め」とスマホにメモした。

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12時間

昨日夕方、外を歩いていて、ふと煙草やめようと思ってコンビニに入ってゴミ箱にまだ半分以上残ったまま捨てて、それから寝るまで喉から肺までがじくじくと煙草を欲していて、しかし明白に脳の血流はよくなって口数まで増えていた。早めに布団に入って、このじくじくの中に入ってそれを裏返すのだとよくわからないことを考えているうちに眠っていて、5時間くらいで起きたのだが最近めっきりなかった完璧な目覚めとともに散歩までして、しかしこの渇きと覚醒に引き裂かれたまま丸一日を過ごすのかと思うととたんにめげてしまい、さっきコンビニで煙草を買って換気扇の下で吸った。結局やめていたのは12時間くらいか。肺と脳が下方で出会いなおす。脳に血を。肺に煙を。それは両立できないことなのか。

(6月30日のツイートより転載)

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6月1日

昨日と似たような行程を、今日は妻と一緒に辿った。つまり、カラスの群れの声に起こされて、昼過ぎに外に出て、イセザキモールを関内のほうへ歩いて行って、昼食を食べて、カフェで本を読んで、本屋に寄って買い物をして帰る。違うのはサーティワン・アイスクリームでアイスを買って帰ったことで、土曜だからか家族連れが並んでいて、ようやくアイスを受け取った妻にアイスを買うだけで大事やったねとつぶやいた。帰ってシンクでドライアイスを溶かして遊んで、夕食にミートソースパスタを作って食べた。風呂上がりに僕はラムレーズン、妻は杏仁豆腐味のアイスを食べた。開けた窓から街の音が聞こえていた。

これで日記はおしまい。日記があってもなくても日々は続く、ということへの信頼みたいなものを育てるために、いつ終わってもいい書き方で毎日書いてきたのだが、1年目の途中に決めた丸3年でやめるということがこうして実際にやってくると、なにか恐ろしいような気もする。他方でやはりこのかたちで書くことにどこか狭苦しさを感じ始めてもいて、このかたちというのは、日記のことでもあるが、それ以上にたぶん、昨日のことについて睡眠というパテーションを挟んで今日書くことだ。でもそれによって日記を書く時間は、すでに昨日ではないがまだ今日でもないある種の人工的薄暮——国際線機上の夜のような——としてあって、むしろその手狭さは心地良いものであったこともたしかだ。だから結局のところよくわからない。いや、矛盾があると思うからわからないのであって、矛盾に見えるものが並んでいるという事実のほうが広いのだ。恐れているのもそのことかもしれない。信じているのものそのことかもしれない。

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5月31日

カフェドクリエで黒嵜さん、山本さんとの鼎談の構成を仕上げて、編集者にメールで送って、さて、と思った。さて…… さて…… いや、もうすることがないのだ。もう来月末の連載締め切りまで、細々したものをべつにすれば何も考えるべきことがない。隣のやよい軒に移って空いていたので4人席に座って、出てきた生姜焼き定食も、肉の焼き目とぱりっとした白さを残したもやしのコントラストが絶妙で、ここには炒め上手がいるんだと思った。有隣堂に寄って5階の人文書から下りながら本や文房具を眺めて、町屋良平の『生きる演技』が気になっていたんだったと見に行くと、そこに村上春樹の英語版短編集のセレクトを踏襲した『象の消滅』と『めくらやなぎと眠る女』が面陳で並んでいて、どうしていまさらこれがプッシュされているのかと思いながら、3冊ともレジに持っていって、紙袋に入れてもらった。ベローチェに移って3冊をテーブルに出して、暇つぶしに寄った本屋で買った本をこうして読むのはいつぶりだろうと思った。大きな窓をそのまま、京浜東北線が横切っていく。

『象の消滅』の最初の「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を読む。僕も彼とほとんど同い年で、見ようによっては失職した身なのだと思う。スパゲティーのゆで時間ばかり話題に上がるが、そもそも日常的にスパゲティーを作る人間はそれを「スパゲティーをゆでる」という言い方では言わないのではないかと思う。作り置きのソースで作るにしても(実際たぶんそういうことなのだが)、麺をゆでることより作り置きのソースを再加熱することをまず言うだろう。いなくなった猫を探して入口も出口もない「路地」に入る。ドゥルーズ&ガタリはカフカの小説を「入口の多数性の原理」(どこから入ってどこから出てもよい)で説明したが、春樹の小説は袋小路ですらない閉域から始まる。突然10分くれという電話がかかってくる。10分くれと言われてしまうともうその10分から出られない。あるいは『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の、上がっているのか下がっているのかわからないエレベーター。ねじまき鳥は、猫のねじを巻かなくなってしまったのかもしれない。ちょうどいま読みかけのル・クレジオ『メキシコの夢』では、侵略前のメキシコの人びとが太陽(の神)に明日も戻ってきてもらうために血を捧げる儀式をしていたことが書かれていた。ヒューム的な懐疑に血で応答する。疑ってしまった以上それくらいしないとウソだよなと思った。その点現代の黙示録的な論調はむしろ、しゃかりきになって疑ってみせる白々しさと、それを指差されたときのためにわかってやっているんですという二重底のウソくささがある。

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5月30日

朝風呂に浸かりながらKindleで坂口恭平(漫画:道草晴子)の『生きのびるための事務』を読む。大学を出て1年目の著者がジムと出会い、10年後の「将来の現実」に向けた生き方を出発させる。自分が23歳で、なにができるのかなにをしたいのかわからなかった頃に戻って再出発させてくれるような、たしかな希望にあふれた本だ。僕は来年でそこから10年。ツイッターで感想をつぶやくと坂口さんが見つけてくれて、入眠のために『シネマ』5時間講義を聴いていたのだと教えてくれた。最初に彼の本を読んだのは、それこそハタチくらいの頃に出た『独立国家の作り方』で、そこからずっと見ていたので嬉しかった。なんでもやっておくものだ。この日記だって彼のパステル画の影響もあるだろう。宅急便で須山さんから台湾の烏龍茶が届く。こないだ飲ませてもらったものが美味しかったと言ったら、輸入販売をしている知り合いからもらっているものらしく、わざわざお裾分けしてくれたのだ。パウチに「lisan」とだけ書いてあって、調べてみると李山烏龍茶のことらしい。さっそく淹れてみると、こないだ自分で探して買った凍頂烏龍茶よりずっと、そのまま茶畑を歩いているようなフレッシュな香りがした。家を出てドトールで仕事をして、ひと息つきながら『生きのびるための事務』にあった、ノートに昨日の24時間と10年後同じ日の理想の24時間をふたつの円グラフで書くのをやってみた。昨日のグラフの下に印税(初版ぶん)、原稿料、フィロショピーなど今年稼げる(3月までもらっていた学振と非常勤は抜きにして)収入予定を列挙してみると合計700万くらい。仮にこれが10年後に1000万になるとするなら、そいつはどういう一日を過ごしているのか。書いてみたが変えたいところが読書時間を増やすことくらいで、あとはほとんどいまと同じだった。いずれにせよ書く・喋るだけで1000万目指すのはかなりしんどいということが判明した。今年の700万だっていろいろ重なってそうなっているのだし、いろいろ重なった状態を維持するだけでも大変だ。大学でも私企業でもいいからとにかくひとりでやること以外の何かがないと。でもそれがなんなのかまだよくわからない。いまこうなっているのだって、なんだかよくわからないまま嫌なことだけ避けてきただけなのだと思って、喫煙ブースに移った。

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5月29日

また吉住さんにサモアールに来てもらって、『非美学』の惹句とイベント企画、『眼がスク』文庫版の進捗とスケジュール確認、論集の今後の方針について話し合う。なんだか最近彼もどんどん元気になっているように見えて、自分の企画で何かしら希望を感じてもらえているんだったら、それだけでもやってよかったなと思う。こないだの撮影もみんな楽しそうだったし、いい波が来ている。ひさびさにサイゼリヤに行って、青豆の温サラダ、辛味チキン、ミラノ風ドリアにチーズが載ったものを食べた。ドリンクバーをつけてもこれで1000円。ジムで20分走って、懸垂とスクワット。80キロで6回を4セット。最初なんだか重いな、調子が悪いのかなと思って3回でやめてよく見ると100キロでやってしまっていた。100キロ持てるのだ。健康維持が目的の筋トレはスクワット(and/orデッドリフト)と懸垂を固定して、あとは一種目くらいその日の気分でやるので十分だと思う。小さい筋肉をちまちまやる時間があったら、ストレッチや体を大きく動かす有酸素運動に使ったほうがいい。

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5月28日

文庫化するだけだからほっとけば出るだろうというくらいに考えていたが、ここ数日『眼がスクリーンになるとき』のゲラ校正と座談会文字起こしの構成にかかりきりになっている。外は暗く曇っていて、小雨だが風が強く、傘を畳んで歩く。しかしまあ、この作業が終われば、連載も隔月にしてもらったし、週一のフィロショピー以外はほんとに暇だ。トークみたいなその場に行けば終わる仕事はなるべくたくさんやって、あとはなるべく自由を確保したい。日記ももう終わるし。でも露出としてはこれからしばらくむしろ増えるんだろうし、変なものだ。夕飯は鶏もも肉の梅と大葉のソテーと、きゅうりとマッシュルームの和え物を作る。ひと口大に切った鶏を焼いてフライパンから出して、そこにバターとすりおろしにんにくを入れて弱火で香りを出して、梅肉を加えて鶏を戻して和える。皿に盛って粗挽き胡椒をたっぷり、刻んだ大葉を肉が隠れるくらいたくさんかける。夜になると風がもっと強くなって、家がかすかに揺れる。スピノザは風とか陽光とか、そういうものがあるだけでぜんぶ哲学できちゃうひとだったんだろうなふと思う。僕はそうじゃない。

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5月27日

フィロショピーの『差異と反復』2回目。「思考のイメージ」批判について話していて、「自明の理」を疑うという言い方では不十分なのかというコメントがあった。当たり前のことを疑うというのは聞こえがいいし、実際哲学は往々にしてそういうものとして自認するわけだが、疑われた世界により確かなしかたで戻ってくるために疑うだけなのだったら、それは既成の価値の追認でしかないというのが、ドゥルーズの話のポイントなのだと話す。デカルトのコギトも、すべてを疑ったすえに「私」に帰ってくるわけで、幸福はわが家にありましたというおとぎ話と変わらない。そういう、常識を疑って常識に帰ってくるための装置として哲学が使われることがドゥルーズは我慢ならなかったのだろう。

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5月26日

なにをしたっけ。久しぶりにジムに行って、帰りに『眼がスク』文庫版のゲラを読んだ。頑固だなあというところと、はっとするようなところが、ランダムに出てくる。未来の自分に、あれは若書きだからなんて絶対に言わせないぞという怒りをエンジンにして書いていたことを思い出した。こないだの黒嵜さん、山本さんとの座談会の文字起こしも構成を始めている。前半が『アーギュメンツ』と『いぬのせなか座』まわりの2017年あたりの思い出話で、これが文庫に載るんだと思うと愉快だ。でもこれからあの本を読むひとにとって、そういう話がいちばん、こういうふうにやれるんだという拡張可能性につながると思う。

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5月25日

ツイッターで蛙化現象についてのツイートが流れてきて、それは恋人のちょっとした行動で気持ちが冷めてしまうスラング的な用法についての話だったのだが、これは「哲学的ゾンビ」問題と似たようなことなのだろうなと思った。つまり、誰かが疎遠で機械的なものに見えるのは、自分が自分に対して疎遠で機械的なものになっていたことの自覚からの、無意識的な瞬時のすり替え・投影なのだろう、と。ちょうど哲学的ゾンビについて「言葉と物」で書こうと思っていたので、この話を導入にするといいかもしれない。往々にしてひとは、とりわけ哲学は、自分がぼおっとしていたことを棚に上げてそれを他人になすりつける。自分の意識について疑うときですら、それを意識的にコントロールする何かを導入せずにはいられない。その点やはりデカルトは偉いのだ。

この日記ももうあと1週間で終わり。1年目は本を作るために、2年目は引用するために、日記を読み返す機会があったが、ここ1年はそれもなくなり、何を書いてきたのかぜんぜん憶えていないし、最初の2年の記憶も遠くなった。3年やってやっと日記らしくなってきたのかもしれない。しかしこれを本当に書き捨てるというのは、どういうことなのだろうか。3年ぶんを本にするという、全体化への期待みたいなものがひとつの拠り所になってきた、つまり、僕でなくても誰かが思い出せるものになるだろうと思ってきたが、仮にそれが実現しなければ、本当に誰も思い出さなくなるし、日々の連続性も回復不可能になるのだ。テクストが消えるわけでもないのに。それはどういうことなんだろう。

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