5月25日

ツイッターで蛙化現象についてのツイートが流れてきて、それは恋人のちょっとした行動で気持ちが冷めてしまうスラング的な用法についての話だったのだが、これは「哲学的ゾンビ」問題と似たようなことなのだろうなと思った。つまり、誰かが疎遠で機械的なものに見えるのは、自分が自分に対して疎遠で機械的なものになっていたことの自覚からの、無意識的な瞬時のすり替え・投影なのだろう、と。ちょうど哲学的ゾンビについて「言葉と物」で書こうと思っていたので、この話を導入にするといいかもしれない。往々にしてひとは、とりわけ哲学は、自分がぼおっとしていたことを棚に上げてそれを他人になすりつける。自分の意識について疑うときですら、それを意識的にコントロールする何かを導入せずにはいられない。その点やはりデカルトは偉いのだ。

この日記ももうあと1週間で終わり。1年目は本を作るために、2年目は引用するために、日記を読み返す機会があったが、ここ1年はそれもなくなり、何を書いてきたのかぜんぜん憶えていないし、最初の2年の記憶も遠くなった。3年やってやっと日記らしくなってきたのかもしれない。しかしこれを本当に書き捨てるというのは、どういうことなのだろうか。3年ぶんを本にするという、全体化への期待みたいなものがひとつの拠り所になってきた、つまり、僕でなくても誰かが思い出せるものになるだろうと思ってきたが、仮にそれが実現しなければ、本当に誰も思い出さなくなるし、日々の連続性も回復不可能になるのだ。テクストが消えるわけでもないのに。それはどういうことなんだろう。

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カテゴリー: 日記