2月27日

 春風社からメールが来ていて、『都市科学事典』が近日ようやく刊行されるとのことだった。「ドゥルーズ゠ガタリにおける都市」という項目を書いたのが1年半ほど前、校正を返したのが1年ほど前だった。1項目見開き1ページで476項目。編集は大変だっただろう。所属先の横国大都市イノベーション研究院が中心になって作っている。

 ドゥルーズ゠ガタリと都市について2000字ほどで、ということで困ったのは、そもそも彼らが都市というものを主題として書いた部分がほぼないんじゃないかということだ。しかし恐ろしいことにDeleuze and the Cityという本がすでにあって——「ドゥルーズと〜」の「〜」には何でも入るという状況は危惧すべきだ——ぱらぱら読んでみるとリゾームとかノマドロジーとかコントロール社会とかそういう観点からの都市社会学的な、実証的とも思想的とも言えないような論文が集められていた。こういうラストワードとしてあまりに通りの良い概念を中心に置くのは避けた方がいい。結局「アレンジメント(agencement)」という概念が構造主義における「構造」に対するどういう乗り越えになっていて、それをどう都市に対する批判的な思考に使いうるのかということについて書いた。博論の内容に繋がるところでもあり、この段階で非専門家向けの解像度で書くことができたのはよかったと思う。

 博論は本論が全6章で第2章と第5章はもともと独立した論文として書いたものだけど、それ以外の箇所も学内のゼミを含むいろんな場所で発表してきた。いちばん古いのは2017年の夏にろばとさんに誘われて参加した台北のイベントで発表したもので、このときの発表のDeleuze’s Anestheticsというタイトルがそのまま博論に使われ、議論の深度はぜんぜん違うが内容的には第1章と第6章に対応する。2020年の夏にこれもろばとさん(と曽根裕さん)に呼ばれて高松の山奥で発表した「地層と概念」(動画)は第3章のもとになっている。一方はアーティストがプレゼンやライブをするあいだに発表して、絶叫しながら皿を割ったりするパフォーマンスをしていた台湾の女の子に「歴史って大事だと思った」と言われ苦笑することしかできず、もう一方は焚き火に文字通り体を焼かれながらの護摩行みたいな環境で、すでにしたたかに酔っ払った石工のおじさんが痰を吐いたりする音を聴きながらの発表だった。

 どちらの発表も内容的には粗く部分的には不正確ですらあり、かといって聴衆に合わせることもできていなかったと思うが、とにかく数千字であるアイデアを素描してそれなりに話の筋も通す機会になったのでよかった。ゼミも哲学研究者がいるわけでないし、ピアレビュー的な厳しさに萎縮せずにいろいろ試せるのはいいことだ。何より自分のやっていることに一切の興味をもっていない人がいる場で発表することは研究者にとってはあんまりないことだろう。別にそういう人をも惹きつけるべきだとは思わない。敬して遠ざけるみたいな感じとかルサンチマンとかそういう感情的な負荷のかかっていない、それ以上でもそれ以下でもない無関心に触れると安心するという話だ。それらしい感想より皿を割っていた彼女や痰を吐いていた彼のことの方が鮮明に記憶に残っている。

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カテゴリー: 日記