5月6日

 ある文章に載せる図版の相談を5月の初め頃にしたいと言われていたのだけど、編集者から連絡がない。そもそもその文章をまだぜんぜん書いていないのでむしろ助かるのだけど。どうしてか図版は無しで済めばそれがいちばんいいと思っている。例えばウェブ版美術手帖によく書いている展評は、こちらが文章を送ると編集が写真を所々に挿入してページを作るのだけど、毎回無くていいなと思う。まあこればかりは仕方がない。卒論ではブニュエルの『欲望のあいまいな対象』の全ショットで映像がどう組み立てられ、そこにどういう音が重ねられているのか記述したけど、それも全部言葉で表にまとめて静止画は使わなかった。よほどのことをしないと図版が実効的な意味をもつことはないと思っている。よほどのことをしたうえで平倉圭とは別の「よほどのこと」を発明することはできそうにないからかもしれない。たんにインフォーマティブな使用だと割り切ってしまえばいいのかもしれないけど、それはそれで文章とイメージが互いに拘束し合う力を舐めているなと思う。そこには共依存的なものがある。サムネイル的にイメージが前に出たり、キャプション的に言葉が優位になったり。目を引くこと(これは何だ?)と理解すること(これはあれだ)。惹句が添えられた大きい扉絵とキャプションが添えられた小さい図版。むしろイメージから言葉を引き剥がして、それを読むだけでひとつの完結した経験が成立するようなものを書きたい。そのとき問題になるのは記述の正確性をどう保証するのかということだけど、ひとつには論述の対象となる作品が(程度の差はあれ)公的なものであることによって、その検証、保証を共同体スケールで担うことができるだろうと思う。そしてそうした検証可能性に対して予防的に、これはこうなってるでしょと写真図版を「有無を言わせぬ」ものとして掲げることに抵抗があるというか、そういう使い方では作品に何か応えたことにはならないんじゃないかと思う。

 いつの間にか厄介な問題に踏み入れてしまっている。以前ちょくちょく書いていた写真つきの日記が良かったという感想が雑談掲示板に来ていて、それについて考えていたんだった。これはこれで難しい問題だ。

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カテゴリー: 日記