8月16日

 珈琲館でぼおっとしていると横浜に帰ってきたという感じがした。古田徹也の『言葉の魂の哲学』と中公新書の安田敏朗の『「国語」の近代史』を代わりばんこに読んでいて、最近言語論ばかり読んでいるなと思う。学部で映画研究をして修士で『シネマ』をやって、その延長としてやっていたような映像作品の批評から、表現形式にかかわらずいろいろ書くようになって、エッセイなんかも頼まれるようになって、他方研究ではドゥルーズを哲学論とその実践として読む博論を書いて、それが終わってなぜか日記を毎日書いている。ぱっと見脈絡を失っているように見えるし、場当たり的にやっているところも間違いなくあるけど、修士で哲学に変えたのが卒論を書いて何をしたことになったのかよくわからないという理由だったし、批評でも哲学でも見よう見まねでやってみてはいるが、結局それが何なのかよくわからないんだと思う。それで言語について読んだり、日記を書いたりしている。それで今は日記とは?みたいになっているわけで世話がない。都会にいると研究や文筆が自然な場所に放り込まれた余所者として考えることを促される感じがあるけど、あのまま松江にいたらどうなっていたんだろうと思う。坂口恭平みたいに地方でバリバリやっている人はすごい。そういう人のほうが自然にやれるんだと思う。

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カテゴリー: 日記