12月10日

歯、というか、奥歯の歯茎が腫れて痛い。これは前にもあったことで、寒くなって乾燥してくると、まず喉仏の横のあたりに違和感が出てきて、そこから歯茎にかけて炎症する。前は親知らずに被さっているところが腫れたのだけど、どこを抜いてどこが残っているかわからないので今回も同じなのかはわからない。内科的な原因で歯科的な症状が出ているのだと思う。ともあれ口内が痛いのをなんとかしたいので歯医者を予約しようと思ったが、金曜日は休診で明日の午前になった。そのままだとものを食べるのも辛いので痛み止めを飲んで昼寝をして、そのままとくに何もせずに過ごした。

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12月9日

てっきりとても面倒なことだと思っていて、引っ越してから免許証の住所変更を先延ばしにしていた。数年前に更新に行った弘明寺の警察署まで行って、写真を撮ったりしないといけないと思っていたのだけど、ちょっと調べると近所の伊勢崎警察署でも更新できるらしい。先日発行した住民票を持って行って、紙に変更事項を書いて、免許証の裏面にそれを印字してもらう。そのままイセザキモールを歩いて、久々に外で作業をすることにした。交差点に分譲マンションの営業をしている人が立っていて、道行く人に声をかけている。誰も立ち止まらないので、しばらく一緒に歩きながら、温かいお茶も用意しておりますのでとか言ってなんとか足止めしようとしている。歩くスパム。ある意味とても贅沢な存在だ。ひとりの人間をこれほど無駄遣いできるとは。何が彼をすりつぶし、彼は何にすがるのか。ふたつはどこまで区別できるのか。

カフェドクリエの喫煙席で原稿を進めた。ひとり席が並ぶ大きなテーブルを挟んで正面に座っていた女性が綺麗な人で、久々に他人の顔を見てそこに何か可能性を投影したいような気持ちになった。見回すとみんなマスクを外していて、顔を出しているということがどこかわざとらしく見えて、なんだか騙されているような気持ちになった。帰りにコーヒー豆を買って、古本屋をのぞいた。立ち読みをしていると焙煎してもらった豆の香りが袋越しに漂ってくる。スーパーで鮭とブロッコリーとペンネを買って帰ってグラタンを作った。

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12月8日

博論本の改稿。いちばんの問題は節構造だと思う。博論の段階ではまず全体として、ドゥルーズの能力論の展開から、彼の哲学と芸術の関係の変遷も追うことができるという思いつきからスタートしていた。前期の能力論と、中期の言語/物質の二元論と、後期の芸術哲学を繋げば、芸術が哲学を変化させていること、そしてそうした変化が可能になるような条件が——当の変化のなかで——哲学に組み込まれていることを明らかにできるだろう、そしてこれは批評の哲学的条件の探究であろうと。これは面白いと思うし、博論を通してテクストベースで主張の正当化ができたと思う。

でも「テクストベース」であることが問題で、というのも博論の節の多くがここではこの本のこの章のこの概念を扱います、というような枠組みになっていて、通して読むとバラバラの講読レジュメを読んでいるような気分になってくる。書いているときはぜんぜん気づかなかったが、頭の中にある思いつきにテクストに基づいた根拠を与えることにいっぱいいっぱいになっていて、当の思いつきに文章のなかでストーリーを与えることまで頭が回っていないのだ。これはびっくりした。いや、審査のときにすでにナラティブがないという指摘をもらっていたのだが、それがどういうことなのか気づくまで一年もかかってしまった。

これは良くも悪くも『眼がスクリーンになるとき』の書き方に引っ張られていたのだと思う。この本を書いたおかげでテクストを区切って整理し、ワイルドカード的な語彙に着目して線を引き、自分なりの読み方として提示するということができるようになった。でもやはり『シネマ』だけで完結させるのとドゥルーズの全体を論じるのとでは、同じやり方は通用しないのだろう。まあやるべきことは大変だがシンプルではあって、節のタイトルを扱うテクストの範囲ではなくひとつの主張や仮説が込められたセンテンスにして、それに合わせて本文の流れを調節するだけのことだ。作業が大変かどうかより目的が明確かどうかのほうが重要。幸いいちばん大変な「こう読める」と言うための読解は博論でひととおり済んでいる。

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12月7日

不思議なもので、あれほど8時に飲食店が閉まってしまうことを窮屈に思っていたのに、感染者数が落ち着いて緊急事態宣言が解かれると家を出る気がなくなってしまった。しばらく買い物以外でほとんど外に出ていないし、作業も家でやって、髭も剃らなくなってしまった。それはそれで落ち着いていろいろ進められるからいいのだけど、気づかないうちに何か鬱屈が澱のように溜まってしまうのだと思う。SNSはそういうもののはけ口として怖いくらいよくできていて、見ていると世界がぎゅーっと狭まって、抽象的なものになって、それで不用意なことを言ってしまったりする。落ち着くために翻訳を進めた。風呂に入ってストレッチもした。どうして自分を維持するというだけでこんなに大変なんだろう。そういう過酷さへの憎悪さえ食い物にされている。でもこの憎悪が削がれてしまうことのほうが怖い。

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12月6日

『存在と時間』を読み返している。前に読んだときは中公クラシックス版だったのだけど——小倉さんが何かにつけて中公クラシックス推しだったので——せっかく読み返すならと思って高田珠樹訳の作品社版を買って読んでいる。いろんなところでハイデガーも大変だなあと思うのだけど、とくに自分の目指す存在論にはそれに見合う「文法」が存在しないので、いきおい表現がぎこちなくなったり、醜くなったりしてしまうかもしれないとエクスキューズしていて、これには考えさせられた。彼はそこで、プラトンの時代にすでにトゥキディデスらの「物語」的な語りと哲学的な用語法とのあいだには大きな開きがあったと述べている。でもそれは日常的な言語で捉えられないものを目指すからこそのことなのだと。同じようなことはドゥルーズも『哲学とは何か』のなかで言っている。哲学者はイデアとかコギトとか、当の言語のなかでは「かたち」とか「考える」とかのようにごく日常的に用いられる語に新たな意味を付与する一方で、ときにはギクシャクとした造語を作らざるをえないときもあると(たしか脱領土化déterritorialisationを例として挙げていた。デテリトリアリザシオン)。そもそもが明治以降の急拵えの翻訳のうえに成り立っているがゆえに、日本のほうがよっぽどそうした乖離は大きいと思う。印欧語族のなかでやって済むんだったら楽でしょうよと思ったりもしていたが、ハイデガーも大変そうなのでそもそもそういうものなのかと思った。意地を張って他の一般的な言葉を使わずわざわざ「現存在」と言っているのでは決してないと言っていてちょっと可笑しかったが、彼の真摯さと謙虚さを見習いたいと思った。

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12月5日

買ったカフェオレを飲みながら道端に立っていると小さなおばあさんが近づいて話しかけてきた。どうしてかわからないがおばあさんによく話しかけられる。何を言っているのかわからなかったが、スマホの画面を僕に向けている。どうしたんですかと聞くと、画面下部にある三つの物理ボタンのひとつの、メールのアイコンが点滅していて、それの止め方がわからないということらしかった。リウマチなのか指がこわばっていて、見慣れない画面で、何かしきりに話していて、終始画面に向かって俯いているので顔が見えず、突然夢の中に放り込まれたように意識がまとまらなかったが、それで困っているらしいということはわかった。僕も自分が何を言っているのかわからないままに彼女の側頭部に向かってとにかく何かをハキハキ喋りながら、点滅しているボタンを押して、未読になっているらしいメールを開いて、それもひらがなだらけで何が書いているかわからず、家のマークの物理ボタンを押してホーム画面に戻ると、点滅が消えて、彼女は歩き去って行った。

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12月4日

ここのところ早寝早起きだ。と言っても1時か2時に寝て起きるのは10時くらいだが。あんまり夜更かしすると、サッカーで終盤をリードして迎えたチームがとりあえず自陣で球を回すみたいな、間伸びした時間が増える。夜更かししているだけでやる気を示せているような気になり、しかし実態はサボっているだけだという自覚と焦りもあり、同時に今日はもう大きな作業はできないという諦めもあり。追い込まれたときは夜中がいちばん頑張れるけど、そうでないときはそうでないのだ。自罰的な感情による「リベンジ夜更かし」という言葉もあるらしい。そういう言葉は、その俗っぽさによって、それに何か自分の実存が巻き込まれてしまっていることの恥ずかしさに気づかせてくれる。あとまあ、友達と遊ぶなり長電話するなりしていたのがいままでだいたい深夜から朝にかけてのことで、それを待ち望む気持ちがなくなってきた、というより、待ち望んでもしょうがないということから目を背けたかったのかもしれない。これからまたそういうことはあるだろうけど、そのときはそのときだ。

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12月3日

起きて、電気ケトルのスイッチを入れて、顔を洗って、洗濯機を回した。コーヒーを入れて、パンを食べて、洗濯物を干した。パーカーだけで寒くないかしばらく迷って、ネックウォーマーも持って出かけることにした。役所に住民票を取りに行く。アパートを出てすぐ、前から何かを抱えたおじさんが歩いてきた。何かを両手で大事そうに抱えている。胸の前に抱えて、覗き込むように頭を傾けている姿勢から真っ先に赤ちゃんが思い浮かぶが、伸びてうねった白髪と、着古したデニムジャケットにサンダルといういでたちとそぐわない。通り過ぎるときに腕のなかを横目に見ると彼が抱えていたのは黒っぽい鳩だった。役所で見かけたちょんまげの若者をイセザキモールでまた見かけた。

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12月2日

久々に家にいるのにご飯を作らない日だった。起きてパンを食べて、夕方に出かけてマックを食べて、夜中にセブンイレブンのナシゴレンと、昨日作ったアンチョビ入りのポテトサラダと一緒に食べた。これもセブンで買った紙パックの甘いカフェオレと一緒に食べていると、インドでビリヤニを食べながらミルクセーキを飲んでいるような気分だった。埃っぽい風とともにクラクションの騒音が聞こえてくることもなく、深夜と明け方に静かな地震があった。

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12月1日

濃厚接触という言葉の退場と入れ替わるようにして、単純接触効果という言葉をよく聞くようになった気がする。たんに接する頻度が高いほど相手に好意を抱きやすくなるという説。おそらくコロナ前であればひとつの恋愛工学的なテクニックとして、とにかく頻繁にやりとりすべしみたいな感じで使われていたのだと思うけど、いまやむしろ自分が抱いている好意を頻度にすり替えるために使われているような気がする。VTuberやスマホゲームのキャラ化された貧しい人格のアディクション的な消費に顕著に見られるようなものへの、あるかないかのアイロニカルな距離が単純接触効果という言葉には込められているように感じる。この好意は接触が濃厚だからではなく、単純で頻繁だから生まれたものにすぎないのだと。気持ちはわかる。

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