日記の続き#49

日記についての理論的考察§9各回一覧
昨日の続きで〈メタテクスト/プレーンテクスト〉について。一般的に言って、ある文がメタに機能するかプレーンに機能するかというのは文脈による。しかし、多少ややこしい話になるが、文脈によってメタとプレーンを割り振れるという発想自体が、文章に対してメタな視点に立つ物言いである。つまりメタテクストとは己をプレーンテクストから切り離す垂直的な運動に宿ると考えたほうがおそらく正確で、たとえば、タイトルと本文の分割とか、章立てと本文の分割とか、段落中の「キーセンテンス」と「サポートセンテンス」の分割とか、そういうアカデミック・ライティング的なカスケード構造はそうした垂直性の典型だ。日記にはそういう垂直性に抗う側面があると思う。というのも、形式的にメタであるところのタイトルが血も涙もないただの日付で、これがメタが高層化することをブロックするからだ。日付を書いてしまえば、本文で記述的になろうが分析的になろうが内省的になろうが思弁的になろうが扇動的になろうが、それをその日のそういう私としてプレーンに受け取ってもらえる(気がする)。これはべつにマジカルな話ではなく、たんに私が書きつける日付に、このひとは昨日も書いたし明日も書くだろうというヒューム的で投機的な信用が宿っているからだと思う。